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二〇一七年七月二十四日 その3

「おい、光、聞いているか?」

 マウンド上に集まった選手たちは、監督からの伝令を聞いていた。

 八回の裏、試合はもう終盤に差し掛かっていた。

 あの後、光が三遊間を抜ける鋭い打球を放ったが、ショートがファインプレーでキャッチした。しかし、体勢を崩したショートの悪送球で、光はセーフに。その後、後続も続き、逆転に成功した。球場からは歓声と共に期待が膨らんでいく。

「ええ、大丈夫です」

 光は相変わらず、素っ気ない返事をした。試合中は、いつもこうだ。

「おっけい。とりあえずみんな、このピンチを抑えて試合を終わらせよう。大気のためにも」

「おう!」

 内野の選手たちは素早く守備位置に戻り始め、信二は光にボールを渡す。

 残りのイニング、全力で行くしかない。

「残り、全力で行こう。本当に大丈夫か?」

 ボールを光のミットに入れると同時に尋ねる。

 さすがに気温が上がり、連投もあるし、心配にはなる。

 けど光の目は、少し遠くを見つめるような、でもしっかりとした眼差しだ。

「ええ。いけます。何か今、」

「どうした? 不調か?」

 信二が心配していると、光が突然吹き出す。

「おい、何で笑う?」

「いや、そういう真面目なところがキャプテンのいいところだと思って(笑)」

「なんだそれ」

「でも、今めちゃくちゃ楽しいっす。このまま死ぬまで投げたいです」

「ああ、そうだな」

 光が楽しいと思える余裕があるのなら、とりあえずまだ大丈夫だろう。

 安心した信二は、そのままリードの仕方を考えながら、ホームベースの方に戻りかける。

「信二、ありがとう」

 その瞬間、驚きと共に身体が反応した。思考が追いつく前に顔を戻すと、光がクスリと笑って、「冗談ですよ(笑)」と軽く言ってきた。

 その余裕に、信二は苦笑いを浮かべつつ、少し、いや、かなり、何故だか分からないが、ゾっとした。

 審判に一礼すると、プレイはすぐに再開された。

 ツーアウトでランナーが二塁に。しかも同点のランナーだ。

 バッターは甲斐学院の一年セカンド、樋口。一年生でレギュラーを掴む実力者だが、今日は打撃が冴えていない。そんな状況でも、代打ではなく、こう送り出されたのは、監督やチームからの信頼があるからだろう。中学時代のこいつは、もっと精神的に弱いイメージがあったが、こいつも成長しているのだろう。何故か、少し嬉しくなる。そして、その影響か、光の表情もいつも以上に集中していた。

 だが、バッターとの勝負に飲まれることなく、冷静さを失わずに対応している。その冷静さは、経験の差であり、能力だけではない精神力が光っている部分だ。

「ボール!」

 初球、ストレートがわずかに外れた。

 八回の終わりが近づいているが、光の球にはまだ力が感じられる。いや、今日はこれまでで一番いい球が来ているかもしれない。光は、まるで何かが吹っ切れたような表情を浮かべていた。



「よーし。よーし。いけるぞ!!」

 松田君の声は、応援団のどの声よりも大きく響き渡る。

 しかし今は、誰もが固唾を呑んで、第二甲府高校のナインを見守っていた。

 九回の裏、甲斐学院の攻撃。ツーアウト、ランナーが一塁。打席には、初回にホームランを放った甲斐学院のキャプテンが立っている。

「ストライク!」

 審判のコールに、観客席から自然と拍手が起きる。どうやら、第二甲府高校は球場全体を味方につけたようだ。

 しかしその中でも、打席に立つバッターは、まったく気を抜かず集中している。いや、それ以上に、今日一番の集中力を発揮している。その姿勢に、素直に尊敬を覚える。

 しかし、それ以上に今、マウンドにいる工藤君の姿は、絶対的な存在のようだった。あの一年生の樋口君との打席の中で、何かが吹っ切れたようで、投球に生き生きとした躍動感が現れた。それはまるで、少年が友達と野球をしているかのように、楽しさと力強さが感じられた。

「ファール!」

 その投球を見守る信二も嬉しそうだ。二人でどこまで行くのか。一球一球に妥協はなく、確かな緊張感がある。どの球にも、今という全ての思いが込められている。

「ボール!」

 相手のバッターも冷静に見極めている。その目の先には、すべてをかける思いが感じられる。彼も必死だ。この瞬間が、今までの努力すべてを意味づける瞬間だと感じているのだろう。

 それでも、それ以上に、純粋にこの勝負を楽しんでいるようにも見えた。そのワクワク感が伝わってくる。まるで、このままずっと勝負していたいと思っているかのようだ。

「ファール!」

 でも、どんなことにも終わりはある。工藤君が「最後」のモーションに入る。すべてをかけた一球が、今決まる。

 そんな気がしたその瞬間、彼の球はいつものように、まっすぐ美しい軌道を描いていく。あの美しい線が、命の輝きのように感じられる。そう、大気君と同じ、あの命の投球。

「ストライクアウト!」

 バッターは手が出なかった。内角低めのストレート。

「うぉ!!!!!!」

 球場全体が響き渡る。その歓声が、すべてを包み込む。ナインがマウンドに駆け寄り、工藤君と信二が抱き合う。

 私も楽器を持ちながら、瑠璃や雪ちゃんと大はしゃぎしていた。歓喜の中で、第二甲府高校は甲子園出場を決めたのだ。


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