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二〇一七年七月二十四日 その2

(落ち着いてきたな)

 今日の光は、乱れていた。ブルペンで投げた球は、思うようには決まらなかった。それでも、その球には、良い意味で力が込められていた。だが、こういう時ほど、試合が始まると、荒れやすい。信二はそれを心配していたが、マウンドの上の光は、すぐに冷静さを取り戻した。

「いいピッチャーだな」

 打席に立った甲斐学院の三番、キャプテンの古橋が声をかけてきた。

 一年生から甲斐学院のレギュラーとして活躍し、今年の春の選抜では打率五割越えを記録した実力者だ。走攻守揃った外野手で、プロからも注目される選手。

「ああ。甲子園を諦める気になった?」

「はは、ふざけんな」

 審判の「プレイ!」の声で、会話は途切れた。

 古橋の表情も一変した。その瞬間、試合の雰囲気が急に変わったように感じる。

 ツーアウト、ランナーなし。

 まだ初回だ。慎重に行き過ぎる必要はない。古橋は打率が高いが、一発のある選手ではない。慎重にやれば問題ない。

 だが、今日は決勝だ。一つのプレイで、流れは一瞬で変わる。

 内角低め。古橋の苦手なボールをいきなり要求する。

 光はミットの位置を確かめ、軽く頷く。

 投球モーションに入る。相変わらず、美しいフォームだ。全身の力を使い、指先に力を込めて放つ。その一球は、まさに狙った通りの軌道を描いた。

(いいコースだ)

 その瞬間、古橋の目が鋭く光ったように感じた。

 いや、表情は見えない。しかし、そのオーラが一瞬、ニヤリとしたように感じた。

 そして次の瞬間、光の渾身のストレートがライトスタンドに消えていった。



「苦しいね、今日は」

 暑さではなく、彼女が言いたかったのは試合のことだと、すぐに分かった。

 現在、五回の裏。〇対三で、第二甲府高校は劣勢だった。初回の相手のホームランから、三回、四回と一点ずつ失点を重ねていった。

 さらに相手投手は好投を続け、第二甲府高校はランナーを三塁まで進めることすらできていなかった。試合は、完全に流れを失っているように見えた。

「うん。本当に苦しい」

 でも、それだけじゃない。冷静に今の状況を見ていると、その背後に工藤君の苦しみが、うっすらと見え隠れしているような気がする。

 マウンドの彼は、どこか苦しそうだった。

 信二が必死にリードをしているが、それ以上に工藤君の内面には、何かしらの葛藤が渦巻いているように感じる。

 投球フォームは綺麗だが、今日はどこかしっくりこない。

 頭ではイメージできているのに、どこかで引っかかって、演奏がうまくいかないような。

「おら! 第二高校! しまってこーぜ!」

 その重い雰囲気に呼応するかのように、スタンドから松田君の声が響いた。

 その瞬間、周囲に笑い声が漏れた。少しでも明るい雰囲気を作ろうとする彼の声が、暗く沈みがちな空気を一気に変えた。

 そうだ、私たちは応援しているのだ。だからこそ、暗くなってはいけない。選手たちの気持ちが前に進んでいくように、私たちの心も前を向かなければならない。

「チェンジだよ!」

 前方で指揮をしている瑞希が声をかけると、周りの部員たちは一斉に演奏の準備を始めた。

 次は六回。いや、まだ六回だ。試合は続く。

 楽器に手を伸ばし、汗を拭いながら、私たちも気持ちを引き締める。

 私たちも戦っているのだ。選手たちだけではない。



「よっしゃ、まだまだ、まだいけるぞ!」

「へいへいへいへい! いいねいいね! おもしろい試合!」

 外野の守備から戻ってきたりんとはじめが大声で叫んだ。その声は、まるでチーム全体にエネルギーを注ぎ込むようだった。

「おっけい、おっけい、まだ行けるぞ!」

 そして、何よりも、誰よりも東が周りを盛り上げる。

 今日は記録員を担当している東だが、彼の存在感はまるで選手そのもののようだった。エースの役割を、自分なりに考え、体現し続けてくれる。その強さに、やはりこの夏のエースは東だと強く感じた。

「三浦、どう思う?」

 監督が、険しい表情で話しかけてきて、信二は少し考え込む。

「そうですね。結構苦しいですが、正直あの打線を三点で抑えられているのは上出来ですよ」

「甲斐学院の打線も、調子のムラがありそうだな。特にキーマンを抑えたら、あとは何とかなる」

 監督はそのまま、うーん、と黙り込んでしまった。そして、プロテクターを外しながら再び考える。

 確かに上出来ではあるが、このままでは厳しい。いつ、光を攻略されるか分からないし、そろそろ光の弱点にも気づかれるはず。だからこそ、ここで何かを打開しなければ、試合の流れを変えるのは難しい。

「カッキーン!」

「おらぁあ!」

 金属音と共に、叫び声が響いた。りんがセンター返しをした音だ。心の中で、思わず「ヨシ!」と思う。

 ベンチとスタンドが一斉に盛り上がる。

 プロテクターを全て外し終わると、はじめが次のバッターとして打席に向かう。

 監督の指示のもと、はじめは確実に送りバントを決める。

 ワンアウト、ランナー二塁。次のバッターは三年の戸堂だ。

 三塁スタンドからは、第二高校のチャンステーマが流れ出す。

 信二はネクストバッターズサークルに入り、戸堂の打席をじっと見守る。

 相手投手は本格派というより、むしろ制球力に優れたタイプだ。ストレートとスライダーで組み立ててきて、光と似ているタイプ。

 ただ、あのウイニングショット。そう、チェンジアップ。あれが本当に厄介だ。スピードがストレートより遅くなるだけでなく、かなり落ちる軌道を描く。

 「ゴンっ」

 戸堂の打球はサードゴロになったが、予め走り出していたため、その間にランナーは三塁へ進塁する。

 次の打席は、信二。つまり俺。

 まだ、夏は終わらせたくない。胸の奥から湧き上がる熱い気持ちが、信二の体を突き動かす。



「よっしゃ! ごら!!!」

 松田君の声が、スタジアム全体に響き渡るように、力強く大きかった。

 そして、すかさずヒットの曲を吹く。

 信二のタイムリーツーベースで、ついに一対三。六回の表、第二甲府高校が一点を返した瞬間だった。

 吹き終わった後、嬉しさのあまり、思わず「やったー!」と瑠璃と顔を見合わせてはしゃいでしまう。

 しかし、すぐに瑞希が鋭い声で「はい! 集中。またチャンステーマ!」と指示を出す。すぐに演奏モードに切り替えるが、それでも心の中は興奮で満ちている。

 そして、次のバッターが打席に入ると、再び演奏に集中する。

 バッターは六組の上野君だ。この暑さもさることながら、相手の投手も疲れが見え始めたのだろうか。上野君は巧みにバットをコントロールし、粘って、粘って、粘った。

 そして、九球目のボールが、上野君の左足に当たる。デッドボールで、ツーアウト、ランナーが一塁と三塁。

 そして、打席に立つのはあの工藤君だ。

 工藤君は、どうしても何かを抱えているように見える。

 初球、工藤君は力強くフルスイングするが、全くタイミングが合わない。打ちに行きすぎて、バッティングフォームを崩している。

 塁上からも、信二が必死に何かを叫んでいる。声が届くはずはないが、何かを訴え続けずにはいられない。

 ふと思う。私は工藤君のことを本当に知らない。

 いつも見ているけれど、彼が心の中で何を思っているのか、何を悩んでいるのか、何が彼を苦しめているのか、全然わからない。今の苦しみも、どう見ても試合だけじゃないだろう。さっきのトイレでも、やはり彼が背負っている闇、というか、何かを感じてしまう。

 会う機会は少なかったけれど、どうしてあんなに作り笑いで距離を取るのだろう?

 どうして、これ以上入ってくるなって雰囲気を作るのだろう?

 そして、そのくせに、どうしていつも寂しそうな表情をして、私に接してくるのだろう?

 私はまだ、工藤君のことを全然知らない。

 それなのに、こんなにも応援しているのは、どうしてだろう?

 ただ、もどかしい気持ちが胸に広がるばかりだった。


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