二〇一七年七月二十四日。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
小瀬野球場は真夏の空に包まれ、雲一つない快晴だった。太陽が照りつけ、観客席からの声援が響き渡り、試合の期待が会場全体に熱を帯びさせている。まるでこの日が特別な舞台だと告げるように、空気までもがピンと張り詰めていた。
その数時間前、三塁スタンドの入口は、試合開始のかなり前にもかかわらず、第二高校の関係者や応援団で埋まっていた。その熱気を抜け出し、私はひとり、駐車場近くのトイレに向かって歩いていた。ついついお茶を飲み過ぎた。
人をかき分けながら進んでいると、男子トイレから一人の人物が姿を現した。
「あれ? 工藤君?」
ユニフォーム姿の工藤君が緊張した、いや、明らかに嫌がった顔でこちらを見返してきた。
「あ.....どうも」
工藤君は短く答えると、どこか居心地が悪そうに視線をそらした。いつもと違い、あの嘘笑いはない。
(どうしてこんなに話しづらいんだろう)
彼が考えていることは、いつも、よく分からない。
沈黙に耐えられず、口から出た言葉は何の脈絡もないものだった。
「今日は、いい天気だね」
「……そうですね」
「雲が一つないね」
「そうですね、はい」
「ねえ……。バーベキュー日和って思わない?」
自分でも、おかしなことを言っているのが分かっていた。でも、何か言わないと、この沈黙を埋められない。工藤君は一瞬眉を動かし、固まったような表情を浮かべた。
「先輩……」
「えっと、何……?」
工藤君はしばらく黙った後、ぽつりと口を開いた。
「……同じこと考えていました」
「え? 嘘でしょう?」
「はい、嘘です」
その瞬間、学園祭で見たあの不意打ちのような笑顔が浮かぶ。私は心がほんの少しだけ緩む気がした。
「何それ(笑)。前も思ったけど、私の事舐めているよね?」
「いや、先輩も先輩です。こちらがせっかく球場から離れたトイレで集中していたのに、台無しです」
「あ.....ごめん」
そうか、先ほどの顔。あれは不快感ではなく、ただ集中していたのか。逆に集中を切らしてしまい、申し訳なくなる。
「気にしてないんで大丈夫ですよ。応援お願いしますね! では」
短い返事と共に、工藤君の瞳にほんの一瞬、真剣な光が宿る。その様子に安心して、私もその場を後にしようとした。そのときだった。
「あの、もしかして工藤さん?」
背後から声がかかり、振り返ると、ユニフォーム姿の選手が立っていた。胸に『甲斐学院』と書かれたそのユニフォーム。今日の対戦校の選手だ。
「はい、そうですが」
工藤君は静かに答える。その声には、試合前の緊張感が滲み出ていたが、次の瞬間、少しだけ眉が動いたような気がした。
「そうなんですね。私、甲斐学院の樋口といいます」
樋口という人は爽やかに自己紹介をしながら、一歩前に出る。その姿は友好を示しているかのようだったが、工藤君は「どうも」と素っ気なく返した。
「私、工藤さんの投球映像をずっと見ていました。綺麗な、本当に綺麗なフォームですよね」
「あ、ありがとう」
工藤君は少し戸惑いながらも、短く答える。
「本当に。まるで、……。そう。輿水大気さんを思い出します」
その瞬間、空気が一瞬で凍りついた。周囲の微かな雑音さえも消えたように感じる。
「そうなんだ」
工藤君の声は低く、重みを帯びていた。
「はい、自分は輿水さんを尊敬していて。だから、あなたのように真似されるのは嫌なんです」
樋口君の言葉は鮮明に響いた。その視線は工藤君の目を真っ直ぐに捉え、離さない。
「真似?」
「はい、工藤さんの投球フォーム、輿水さんの丸パクリじゃないですか。そっくりです」
その瞬間、工藤君の表情が硬直する。
「そうかな。彼を映像で見たことあるけど、そもそも右左で違うと思うけど」
「いや、そっくりなんです」
工藤君は短く息を吐き、冷静さを保とうと努めながら言葉を紡ぐ。
「あ、そう。確かに彼の投球を参考にはしたよ。何せ去年、この山梨県の中でも、防御率のいい投手だったし。でも、球筋も違うし、使う球種も違う。君が輿水君のことをどう思うかは知らないけど、ちょっかいは出さないでくれないかな?」
その言葉には、明確な線引きがあった。
でも、そっか。工藤君、大気君を参考にしていたのか。だから、あんなに似ていたのか。
しかし樋口君は、引き下がる気配を見せなかった。
「いや、私は本当に輿水さんのことを尊敬しているからこそ、嫌なんです。何せ、命を助けてもらっているので」
「ん……なんて?」
工藤君の表情が一瞬揺れた。その瞬間、空気が一層重くなるのを感じた。
「輿水さんって、去年、事故にあったじゃないですか。その時、中学生を庇って亡くなったんです。実は、庇ってもらったのは、私でして。だからこそ、輿水さんの分も頑張って、野球で活躍しないと。自分、輿水さんに託されているので」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の胸が詰まるような感覚に襲われた。あの事故の日、あの衝撃と混乱、そして胸を締め付けるような痛みが脳裏に甦る。
視界の端で、工藤君が私を気遣うように一瞥をくれる。そして、すぐに、樋口君に向き直った。
「そうなんだ。輿水君のことは詳しくは知らないけど、俺たちも彼の想いを背負っている。だからこそ、ベストを尽くすだけさ」
その声は落ち着いていたが、どこか鋭く、殺気を帯びていた。
だがその時、トイレから樋口君の先輩らしき選手が出てきたことで、会話はそこで中断された。
樋口君は、一礼して去り、工藤君も無言でその場を離れた。
振り返りもせず、静かに歩いていく背中を、私はただ目で追うことしかできなかった。
ただ、胸の奥で、ざわざわと、何かが渦巻いている。
やはり彼は、別人だ。