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二〇一七年七月八日

 二〇一七年七月八日。

「只今より、石和工業高校対、第二甲府高校の試合を開始します。双方、礼!」

 私たちの最後の夏が、ついに始まった。

 毎年、野球の応援は全校応援が基本で、特に夏の試合は熱気と興奮が最高潮になる。でも、そんなことよりも、今日は信二が出ているから、心の中でドキドキしていた。

「ねえ、千沙。今日、暑くない?」

 瑠璃が顔をしかめながら声をかけてくる。

 夏の甲府は本当に暑い。吹部にとって、この時期は暑さとの戦いだ。去年の井上先輩のように、毎年何人かが倒れるのが、第二高校吹奏楽部の夏の風物詩となっていた。

 事前に瑞希とも相談して、今年は一人も犠牲者を出さないと決めたけれど、実際どうだろうか。

「ねえ、瑠璃。大丈夫?」

「今年は倒れたくない。本当にそれだけ願う」

 瑠璃が冗談混じりに言うけれど、かなりきつそうだ。だが、そんなことを考えているうちに、試合はどんどん進んでいく。

 一回の表、石和工業がいきなり二連打で一点を先制。その後、信二がマウンドに行き、二年生の矢部君を落ち着かせるシーンに思わず息を呑む。

 しかし、矢部君は抑えきれず、さらに一点を失点。すぐにベンチが動き、ピッチャー交代。

 四組の東君がサブマリン投法で見事に相手打線を抑え、第二甲府は流れを取り戻す。

 その後、裏の攻撃では信二をはじめ、クリーンナップが爆発。あっという間に、三対二。逆転となり、応援席にも歓声が響き渡る。

 しかし、その後、相手がエースを投入し、試合は均衡状態に突入する。

「千沙たち、大丈夫?」

 前方で指揮をしていた瑞希が、みんなの様子を確認しに来た。

 試合が少し停滞しているから、私たちも楽器を吹かず、座って休む場面が増えてきた。だから、割とみんな元気だ。でも、私にとっては、信二が出ているからこそ、どうしても緊張してしまう。

 そして、七回。事件が起きた。



(思ったより、見極められてきたな)

 信二は相手バッターを観察しつつ、冷静にそう感じた。

 東は確かにいいピッチャーだが、スタミナに問題がある。疲れてくると、スクリューのコントロール精度が落ちてくる。それに、矢部が思った以上に踏ん張れず、東が初戦からロングリリーフをすることになってしまっている。

(もっと声をかけて、矢部を落ち着かせられたかもしれない)

 心の中で反省しつつも、今は目の前のバッターに集中しよう。東がモーションに入る。信二の要求通り、内角低めにボールが決まり、バットが空を切った。

「ストライクアウト! チェンジ!」

 審判の声が響き、選手たちがベンチに戻る。信二はすぐに、東に「ナイスピッチ!」と声をかけると、東が乾いた笑みを浮かべて答えた。

「いや、思ったより見極められるな」

「うん。でも初回は外角を攻めた分、内角を上手く使って組み立てていこう。東のボール、まだ走っているぜ」

「あはは、だったら、さっさと追加点欲しいぜ。頼むよ、相棒」

 東は少し笑って、水分補給をし、打席に向かう準備を整える。信二はその姿に心配しつつも、背後からの高橋監督の声に反応する。

「どう思う、三浦?」

「そうですね。今後のことを考えたら、そろそろ工藤にスイッチすべきですが、この均衡状態では難しい判断ですね。ただ、個人的には次回の試合を見据えて、東には少し休んでもらいたいと思っています。何せ、この暑さですし」

「うん、そうか。この回で点が取れたら、スイッチするか」

「了解です」

 信二はうなずきながら、ふと自分のことも気にかける。まだタイムリーヒット一本。そろそろ、相手のエースを攻略しなければならない。その思いが重くのしかかる。

 その時、グラウンドでひときわ大きな声が響き渡る。

「お!」

 信二の視線が、自然と打席の三年、鈴宮に向かう。

 鈴宮が久しぶりに長打を放ち、ノーアウトで二塁。チャンスだ。

 試合の興奮が高まり、スタンドからチャンステーマが響き渡る。信二はその声援を背に、さらにテンションが上がった。

 次はピッチャーの東が打席に立つ。

 相手ピッチャーは本格派だが、この暑さと試合の緊張で、疲れが見え始めている。球には違いがないが、明らかに表情が険しくなっているのが見て取れた。信二はその微妙な変化に気づき、次第に焦りの感情が湧き上がる。

 高橋監督がサインを出す。

 東はバントの構えを見せ、相手の内野が前進して三塁への進塁を阻止しようとしている。

「ボール」

 次の一点の重みが、誰もが感じていた。

 二球続けて外れたボールを受けて、相手キャッチャーがタイムを取る。相手キャッチャーはマウンドに上がり、ピッチャーの肩を叩き、強く何かを言っている。その姿に、信二は強く共感する。

 この最後の夏、負けたら試合が終わる。その恐ろしい現実。

 だが、信二はその仕組みが嫌いではなかった。むしろ、この仕組みがあるからこそ、全てを出し切れる。そう感じる。こんな興奮は、今しか味わえない。

「プレイ!」

 審判の掛け声とともに、緊張感が再びグラウンドに戻る。

 相手ピッチャーは一呼吸を置き、投球動作に入る。

「あ!」

 相手ピッチャーのフォームが崩れ、ボールが抜けた瞬間を、信二は見逃さなかった。

(チャンスが来た!)

 しかし、次の瞬間。

「ゴンっ!」

 東の左腕に直撃したボールの音が、静寂を破るように響き渡る。

「デッドボール!」

 審判の声が響き、東は痛みでその場にうずくまる。

 信二は無意識に叫んだ。

「東!」

 監督が我先にベンチから飛び出し、東の元へ駆け寄る。

「東、大丈夫か? どこが痛い? どこに当たった?」

 東は苦悶の表情で答えることなく、ただうなずく。

 そのままベンチ裏へ下がると、スタンドからは不安の声が漏れ始める。

 エースの不在。大気に続き、東まで。それはこのチームにとって、二度と起きてほしくない悪夢だった。信二の胸に、重く冷たいものが押し寄せた。その胸の中で、何かが崩れそうな気がした。



「いや~、すごかったね、野球部」

 高校への帰り道、荒川沿いを自転車で走りながら、瑠璃は他人事のように呟いた。

「そうだったね。結構劇的だったけど、東君が心配」

 東君は、笑顔で戻ってきた。その瞬間、球場全体が拍手と歓声に包まれた。そして後続が続き、見事に一点をもぎ取ることができた。四対二。

「そうだよね。でも、その後の、あの子がすごかったじゃん。ほら、前に千紗が話した、あのイケメンな……あれ? 名前なんだっけ?」

 東君が降板し、予想外のピッチャーがマウンドに上がった。それは、あの工藤君だった。

「工藤君でしょう?」

「そう! 工藤君。私、ファンになっちゃったよ。凛々しいというか、オーラがあるというか。あんな子がうちの学校にいるなんて、驚いちゃうよね」

 私も驚いた。それは、東君が降りたこともあるけれど、それ以上に工藤君の立ち振る舞いが印象的だった。マウンドに上がる時の入り方や、守備位置の確認の仕方。その一つひとつに、何か特別なものがあった。

 大気君と親しくなってからは、インターネット上の特集動画などで、彼の投球をしっかり見た。そのおかげで、仕草の一つひとつに気づくようになった。だからこそ、工藤君が似たような振る舞いをすることに驚いた。

「そうね……驚くよね……」

 しかし試合中、さらに驚くべきことが起きた。

 大気君は左投げだったけれど、工藤君は右投げ。それでも、あのフォーム。スリークォーター気味の投げ方、投げた後の腕の戻り方、落ちた帽子の拾い方。どれもが、驚くほど、いや、おかしいほど一致していた。

 もちろん球速や変化球のレベルは、大気君の方が速くて上だった。けれど、打たせないオーラ、圧倒的な集中力、それらはあの夏の大気君を思い出させるような、絶対的なエースだった。

 私はいつの間にか演奏そっちのけで、その姿に見とれて、いや、ただただ心の中で混乱していた。

「ちょ、千紗、聞いてる? もしかして、惚れた?」

「い、いや違うわ。それはない」

「だよね~。カッコよかったけど、何よりあんたには、いい旦那がいるしね。何せ、千紗ちゃんの”初めて”の彼氏だしね~」

 瑠璃は高笑いしながら、立ち漕ぎに切り替えて、私を追い越していった。

 空は夏らしく、エモーショナルな色に染まり、荒川はその色を優雅に着飾っていた。まるで私の心とは反対のような、綺麗な景色だった。


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