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二〇一七年六月五日

 二〇一七年六月五日。

 放課後にも学園祭準備が入り込む、特別期間に突入した。私も忙しかったが、それ以上に、学校全体が慌ただしさに包まれていた。

 今年の三年一組、二年一組、一年一組、通称『ザ・1くみーず』は、これまでにない戦略で優勝を狙うことを決めた。その戦略とは、徹底したブランド戦略。学年ごとにコンセプトを分け、ホラーで統一するというものだ。

 一年生の出店は、和風のお化け屋敷『貞子エピソード3~怒りの犬鳴峠~』。二年生は、『スリラー』をヘビメタ風にアレンジした『ゾンビブレイクダンス』。そして三年生は、洋風のお化け屋敷『ブギーマンといっしょ』。以上の通り、「ホラー」一本。

 反対意見も多かった。本当に、多かった。

 特に、「なぜ『ブギーマン』?」という疑問。確実に、我々の世代ではない。

 しかし、松田君が「俺を信じろ!」と叫ぶ。続いて、参謀の須賀君が「僕の尊敬するエキサイティングハイパークリエイターの西さんの本によると……」と熱弁を振るう。

 クラスメイトたちは、いや、本当に、ドン引きだった。特に長谷さんは、殺し屋のような冷たい目をしていた。

 だからこそ、皆、助けを求めるように担任を見つめた。

 担任の先生は、やはり先生である。あまりにも突飛な案は却下されるはずだ。

 が、どうしてだろう。先生の教卓には、ホラー映画のビデオが山積みに置かれている。その視線を察してか、担任は「ほ、ほら。これ、参考になるかなって」と、少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに語り出した。

 公私混同。そして、戦犯誕生。

 どうやら、先生もホラー映画が大好きだったらしい。その事実が決定打となり、もう誰も反対する気力を失った。

 こうして、ホラー企画の準備に追われる日々が始まった。放課後の時間はどんどん削られ、個人練習の時間も減る。仕方なく、朝、始発で自主練をすることにした。

 早朝の甲府駅は、何度訪れても心地よい。少し暑さを感じるが、澄んだ空気が広がり、どこか特別な気分になる。

 甲府駅南口のエスカレーターを降りると、ひんやりとした朝の風が肌を撫でた。信玄公の像が静かに街を見守る中、その傍らにある地下駐輪場へと足を向ける。自転車のロックを外す音さえ、街の眠りを邪魔してしまいそうなほど静かだった。

 甲府駅から西へ向かい、気象台東の交差点を左へ曲がる。すると視界が開け、アルプス通りの整然とした直線が広がる。その先に見えるのは、新荒川橋。

 気持ちの整理は、もうついたはずだった。しかし、こうして橋を渡ろうとすると、どうしても大気君のことを思い出してしまう。事故のことも、そして、彼と出会った場所という意味でも。



 大気君は、入学前からすでに有名な存在だった。

 山梨西中央シニアでその名を轟かせ、県内外の強豪校からスカウトが殺到。特に、甲斐学院の当時二年生エースだった金丸さんからは、熱心な誘いを受けたという。何せ、同じシニアの大先輩である。しかし、大気君はすべてのスカウトを断り、第二甲府高校へ進学した。理由はただひとつ。信二と一緒に甲子園を目指すため。

 その自信はすぐに実を結び、夏の大会で即レギュラー入り。県大会決勝まで進出する快進撃を見せた。

 私自身、吹奏楽部の応援担当として、その活躍を間近で見ていた。特に大気君の応援歌『必殺仕事人』では、体調不良の井上先輩の代わりに、トランペットのソロを急遽担当していた。ただ、そのソロは、疲労よりも楽しさが勝っていた。その感覚は今でも鮮明に覚えている。

 しかし、あの夏には苦い記憶もある。夏のコンクールで、西関東大会に進めなかったこと。それが、私にとって大きな挫折だった。

 難度の高い曲を演奏し、「第二高校は絶対に上に行く」と観客も確信していた。だが、結果は予想外。表彰式の瞬間、会場がざわついたのを今でもはっきり覚えている。

 その悔しさが、私を次へと駆り立てた。

 秋の芸術文化祭と、冬のアンサンブルコンテストでは絶対にリベンジしよう。そう決めて、始発で練習に通うことにした。

 もう、残りは一年半しかない。あの悔しさを繰り返さないために、時間を無駄にはできなかった。しかし、その気合は空回りし、思うような成長を実感できない日々が続いていた。

 そんな中、二〇一六年十月のある日。季節外れの台風が山梨を直撃し、暴風雨となった。

 親には止められたが、すでに甲府駅に着いていた私は、そのままカッパを着て学校へ向かった。

 激しい風雨の中、頭にあるのは「どうすれば上手く吹けるか」ただそれだけ。しかし、新荒川橋を渡ると、風はさらに強まり、自転車が進まなくなった。そのとき、初めてスマホのバイブレーションに気づく。画面を見ると、『件名:【連絡】休校通知のお知らせ』。

「今さらかよっ」と、思わず苛立ちが込み上げる。

 でもこればかりはしょうがないし、確認しなかった私が悪い。練習できないなら帰ろうと、方向転換しようとしたそのときだった。後ろから、同じようにカッパを着た人物が声をかけてきた。

「すみません」

 暴風の中でも、その声ははっきりと耳に届いた。

「あ、はい」

「今日、学校休みだって聞いたんですが、何しているんですか?」

 その言葉で、相手が同じ学校の生徒だとすぐにわかった。

「いや、練習に来ただけですけど」

「え、今日練習していいんですか?」

「いや、きっとダメだと思いますけど」

「じゃあ、何で来たんですか?」

 少し恥ずかしかったが、隠す必要もない。別に同じ学校の生徒だ。

「休校の連絡前に来ただけです」

「それって……めちゃくちゃバカですね」

 素直に言ったのに馬鹿にされると、さすがにイラっとする。思わず反論した。

「何ですか? あなたこそ何で来たの?」

「……休校の連絡前に来ただけですけど……」

 次の瞬間、二人とも吹き出してしまった。

 せっかくここまで来たのだからと、二人で学校へ向かい、正面玄関で雨宿りをした。そこで初めて、相手が輿水大気君だと気づく。

 しっかりと話すのは初めてだったが、それ以上に不思議な親近感を覚えた。おそらく、台風の中でも練習に来るような部活バカ同士だからだろう。そして、悩んでいた私にとって、大気君が言ったあの言葉はとても印象的だった。

 それから毎朝、大気君と顔を合わせるようになった。

 私が早く学校に着いて練習していると、大気君は悔しそうにしていた。逆に、大気君が先に来ると、「遅いっすね」とからかいながら敷地内をランニングしていった。そして気が付くと、少しずつ距離が縮まった。

 今まで私は、恋愛には全く興味がなかった。もちろんカッコいいと思う人はたくさんいるけれど、それ以上に付き合おうとは思えない。

 いろいろな理由があると思うが、私のような不器用な人間にとって、「誰かと付き合うことは、今までの生活ができなくなること」。つまりデメリットが大きいと考えていた。おそらく部活や勉強と両立はできないだろうし、崩した調子を戻すのはかなり大変。つまり、好きな人がいないのではなく、単にビビりだった。

 でも、それも違うのかもしれない。

 本当は、もし自分がそのことを分かっていたとしても、それでも、付き合いたいと思える人がいなかっただけだ。

 しかし、ある日。いつも通り朝練に来ると、大気君は現れなかった。

 最初は寝坊したのかなと思ったが、どうにも来る気配がない。ちらっと時計を見ると、すでに朝練の終了時間を過ぎていた。私は楽器を片付け、教室に戻ることにした。

 授業中、全く集中できなかった。

(今日、なんで来なかったんだろう)

 不安が頭をよぎり、それは雪だるまのようにコロコロ転がり、どんどん大きくなっていく。

 だから、思わず信二に、「今日、大気君来てるの?」と聞いてみた。信二は少し不思議そうにしながらも、「特に、休みの連絡は聞いてないよ」と言った。

 じゃあ、なんで来なかったんだろう……。

 次の日、朝練をしていると、大気君はいつものようにやってきた。

 私は少し安堵すると共に、「昨日なんで来なかったの?」と問い詰めた。

 すると大気君は、ケロッとした顔をしながら、「すみません……。寝坊です」

 私があそこまで心配したのに、寝坊か……。

 少しいらだちを感じたが、「次はないよ」と言って、解放した。

 でも、その時に気が付いた。ここまで触れ合ってきて、今の生活を保てる相手だからこそ、私は大気君なら付き合えるかもしれないって、少しだけ思っていた。

 けれど、今思うと、それも言い訳だったように感じる。

 「保てる」とか、そんなことではなくて、私はただ、大気君のことが好きになっていた。自然に、大気君のことを考えるようになっていた。

 だからこそ、今度は別の不安が頭をよぎる。

 もし付き合って、破局して、会話すらできなくなると、私はどうなってしまうのだろう。大好きな人ほど、失うときのダメージは大きい。その新しい不安が、胸の中で静かに、でも確実に膨らんでいった。

 そんな中、ある日、大気君が突然言った。

「先輩に会うのが、今一番の幸せです。一生の幸せにさせて下さい」

 その不器用な告白に、私は少し驚きながらも、心の中で温かいものを感じた。本当に嬉しかった。

 しかし、今は違う。

 私は信号の点滅に気づく。意識が少し遠くに向かっていたことを感じる。

 もう橋を渡り、駄菓子屋の前を通り、校門に向かっている。

 まだ朝早い校内には用務員さんしかおらず、静まり返った校舎が佇んでいる。その空虚さが、どこか寂しさを感じさせる。

「あの場所には、大気君はもういない」

 学校のスターがいなくなった事実は、校舎にまで寂しさを刻み込んでいるように思える。

 用務員さんが朱雀会館の鍵を開けるのを待ちながら、譜面台を運びながら、ふと思う。私は心の整理ができたと思っていたけれど、どこかに、大気君の影が残っている気がして、それを探しているのかもしれない。

(会いたいな……)

 そう思ってしまう自分に、自己嫌悪を感じる。だって、大気君の告白を私は……。そんなことを考えていたときだった。

「おはようございます!」

 突然の声に、驚いて振り返ると、そこにはユニフォーム姿の野球部の子が立っていた。忘れるはずがない。信二の後輩、工藤光だ。

「お、おはよう。早いのね」

 驚きながらも、私はなんとか平静を保とうとした。

 けれど、びっくりした。まさか、こんな早朝に他の生徒と顔を合わせるとは思っていなかった。

「まあ、ルーティンですので」

 工藤君は、前会った時のようにさわやかな笑顔を浮かべている。しかし、その笑顔が、なんだか少しモヤっとしたものに感じられるのは、きっと気のせいだろう。

「……そうなんだ。頑張って!」

 私は思わず早口で言ってしまった。

 もしかしたら、工藤君の笑顔は関係ない。きっと大気君と二人だけの時間だったからこそ、誰にも、入って欲しくなかったのかもしれない。

 私のよそよそしい雰囲気に気づいた瞬間、工藤君の表情がかすかに陰る。

「……まあ、先輩もペットの練習、頑張ってください! では!」

 彼の声は、まるで何事もなかったかのように。そうして、彼はすぐに踵を返し、軽快な足取りで走り去っていく。

(……思ったより切り替えが早い子なのかもしれない)

 私は少し意外に思いつつも、楽器を部室から運び出し、最初の音出しで、何となくあの応援歌のソロを吹いてみた。


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