二〇一七年六月二日。
「で、これでこうなります。以上で授業は終わりです。挨拶は結構」
授業が終わり、ようやく昼休み。とはいえ、今日はのんびり過ごす余裕なんてない。六月に入り、学園祭の準備が本格化してきたからだ。
私たちの学校の学園祭『朱雀祭』は、二日間にわたる一大イベント。一日目は県民ホールでクラスや部活の出し物を披露し、二日目は校内で模擬店や展示が行われる。今年もその準備で忙しく、縦割りチームでの連携が鍵となる。
「よし、学園祭委員は揃ったな! みんなで行くぞ~!」
縦割りチーム長の松田君(サッカー部)の元気な声が響く。彼を先頭に、バレー部の長谷さん、剣道部の須賀君、信二、そして私の五人が、後輩クラスの教室がある南校舎へ向かった。
「相変わらず元気だよな、松田は」
隣を歩く信二がぼそりと呟く。
確かに、彼の明るさは少し異常。けれど、ムードメーカーがいるとクラス全体がまとまりやすいのも事実だ。
「信二も、そういうキャラでいったら?」
軽く言ってみたつもりだったが、信二は即座に首を振った。
「いや、それは無理。だったら須賀に任せる。なあ、須賀」
「え、俺? ざけんな。俺みたいな知性タイプには向いてない」
「あれ? いつから知性タイプになった?」
「おい!」
須賀君が怒り、拳を振り上げる。だが、それを見た信二はむしろ楽しそうに笑っていた。
男子高校生の日常というのは、実に単純で、微笑ましい。
その空気を察したのか、松田君がくるりと振り返り、目を輝かせた。
「お! 喧嘩か?」
何とも嬉しそうな顔で勢いよく飛び込んでくる。
「おい、松田、お前は関係ないって!」
「そうだ、これは三浦と俺の……」
「うるせえ! どっちも吹っ飛べ!」
松田君が叫んだ瞬間、軽く助走をつけ、勢いよくドロップキックを繰り出した。
信二は咄嗟に避けたが、須賀君のお腹に見事クリーンヒット。
「うへぇ!」
奇妙な叫び声とともに、須賀君はそのまま地面を転がっていった。その様子を見た信二と松田君は、腹を抱えて笑い転げる。
「男って、本当に馬鹿ね」
長谷さんの毒舌に、私は正直、心から共感した。微笑ましくない。やはり馬鹿だ。
そんないざこざをやっていると、南館から誰かが歩いてくるのが見えた。
(ヤバ!)
一瞬、先生かと身構えたが、ただの生徒でホッとする。
けれど、背が高く、目を引く独特の存在感。
「あれ? 光じゃん。どうしたの? 北館に用事?」
気づいた信二が自然と声をかける。その生徒は微笑みながら答えた。
「三浦先輩、お疲れ様です。ちょっと職員室に用があって」
近くで見ると、端正な顔立ちが際立つ。長谷さんが小声で、「結構イケメンじゃない?」と耳打ちしてくる。私は迷わず頷いた。
工藤君がふとこちらを向き、視線が交わる。微かに見せた笑顔が、どこか大人びている。まるでモデルのようだ。
「お前また課題の再提出か? でもまあ、何か頑張れよ」
「何をですか(笑)」
工藤君は少し笑って、職員室へ向かっていった。
「いい後輩君だね。信二、あんな子、野球部にいたっけ?」
「おう、すげえいい奴だよ。工藤光。ほら、前に千紗に話しただろ? 二年生の転校生。親の仕事の都合で越してきたんだ。でも、ピッチングも悪くないし、さらにな! 高野連のルール上、転校理由的に問題なく公式戦にも出られる! これは普通にラッキー!」
信二の話から、工藤君が野球部でも評価されているのが伝わる。なるほど、転校生だったんだ。
「投手が増えて、よかった~! 投手なんて、何人いてもいいですから~!」
信二はそう言いながら、松田君と共に南館へ走り出していった。
「ナイスボール!」
外角低めにズバッと決まったストレート。信二は軽快な声を響かせながら、ミットから取り出したボールを軽やかにピッチャーの東仁へ返す。
心の中では密かに感嘆していた。いい球だ。調子が良さそうだな、と。
「一旦このくらいでいいや」
東がグラブを外しながらそう言うと、信二も頷き、二人は並んでブルペンからグラウンドの方へ向かって歩き出した。
「東、今日はボールキレッキレじゃん」
「今日はって何だよ(笑)。まあ、そうだな。調子は悪くない」
東仁。第二甲府高校野球部のエースは独特のフォームが特徴だ。
左腕のサブマリン投法。素人が見ると、まるで地を這うような下投げに驚くだろう。もちろん打者にとっても厄介で、制球も安定している。
だが、そんな東も昨年までは控え投手だった。なぜなら、チームの絶対的エース、輿水大気がいたからだ。
正直、大気が入学した頃は、東には追いつけていなかった。そりゃそうだ。中学とはレベルが違う。しかし、持ち前のセンスと負けず嫌いで、すぐに対応し、大気は短期間でエースの座をもぎ取った。
大気は結構わがままだし、意気地なしで気持ち悪いところも実はある。けど、野球に関しては別格だった。特に試合中。圧倒的な集中力に加え、暴力的な速球と、えぐい軌道のカーブ。あれはやはりレベルが違った。
しかし、その大気は突然亡くなった。
チームは戦力的にも、精神的にも壊滅状態だった。他校からも「第二甲府は終わったな」と白い目で見られることもあった。
けど今は、東がエースナンバーを背負い、チームを引っ張っている。プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、彼はそれを明るい性格で覆い隠していた。少し心配とは思いつつも、本当に東がいて良かったと思っている。
しばらく当たり障りのない会話を交わしていると、東がふと足を止め、何かを見つめていることに気づいた。
「どうした?」
「いや……工藤って、本当にすごいなと思って」
東の視線の先には、グラウンドの隅でキャッチボールをしている工藤光の姿があった。
「正直、多少でも戦力になったらラッキーと思っていた。が、転校してきたばかりなのにさ。もうチームに完全に馴染んでいる。しかも練習メニューだってきっちりこなしているし」
東の言葉に信二も頷いた。
工藤光。五月に転校してきたばかりの二年生。短い期間でチームに溶け込み、その投球はすでに貫禄もある。
それに加えて、彼の人柄も魅力的だ。常に爽やかな笑顔を絶やさず、誰に対しても誠実に接する姿は、上級生である信二たちにも好感を持たれていた。
「確かに、完璧だな。こんな短期間でここまでやれるなんて、ちょっと驚きだよ」
「だろ? でもさ……」
東は何か言いかけて、言葉を濁す。その顔は、いつもの明るい表情とは違い、どこか曇っている。
「なんだよ。気になることでもあるのか?」
信二が問いかけると、東はしばらく沈黙し、それから小さな声でこう言った。
「……いや、エースナンバーを取られないようにしないと」
その一言に、信二は少し驚きつつ、ついつい笑ってしまった。
「お前、そんなこと気にしてんのか?」
「いや、去年のトラウマが……」
「あ……、ごめん」
東は変に気を遣うところがあるから、やはり心配になる。
けど、そうは言っても、もう三年。東の実力は十分に理解しているし、何より、皆から認められている。誰が見ても、エースは東である。
「大丈夫だ、東! しっかり自分のことに集中していこうぜ」
「……ああ、そうだな!」
東は気持ちを切り替えるように肩を大きく回す。その様子に安心しながら、信二はふと工藤の背中に目を向ける。一瞬の沈黙の後、深く息をついて気持ちを切り替えた。
「さあ、戻るぞ。紅白戦だ」