二〇一七年五月十日。

　三年生の教室は、どこか落ち着かない。

　窓からは、大好きなグラウンドも富士山も見えず、雰囲気は微妙に張り詰めている。去年、同じパートだった井上先輩に受験応援のお菓子を届けたときは、「本当に同じ学校？」と疑うほど重苦しかった。

　でも、今はまだ五月。最後の学園祭に向けて皆が盛り上がっているおかげで、教室の空気は少し明るい。そんなところが、ちょっとした救いだった。

　橘千沙は、一応真面目に古典の授業を受けていた。

　勉強は正直苦手だし、授業も特に面白いとは思えない。けれど、受験には必要だし、努力すること自体は嫌いじゃない。我慢すれば、その分得られるものがある。試行錯誤しながら習得するより、ずっとシンプルで分かりやすい。

　隣では、野球部の三浦信二が黙々とノートを取っていた。

　本物の真面目を目の当たりにして、

（さすが信二、やっぱり几帳面だな）

　と、千沙は内心感心する。

「じゃあ、今日はここまでにしましょう」

　授業が終わると、教室の緊張が一気に緩む。そこへ、陽気な声が飛んできた。

「あー千沙ー！　もう全然わかんない！　この授業、マジ難しいって！」

　同じ吹奏楽部の山見瑠璃が、椅子をズリズリと近づけてくる。

「えー、どこが？　分からなかったら、ちゃんと質問すればいいのに」

「そんな真面目に見えます？　奥さん、不真面目なところが私のチャームポイントですよ？」

　瑠璃のこういう意味不明な返しには、つい笑ってしまう。だからこそ、彼女は一番の親友なんだと思う。

「ほら、山見。あんまり絡むなよ。千沙が困ってるだろ」

　信二が横から軽く注意を飛ばす。

「ふーん、夫婦そろって隣の席で調子乗っちゃって。幸せそうでいいわねー！　爆発しろ！　火星まで吹っ飛べ！」

「まあまあ、落ち着けよ」

　いつものやりとりだ。三年間、同じクラスで過ごしてきたからこそ生まれた自然な日常。何気ない時間だけど、千沙にとっては、とても楽しいひとときだった。

「千沙は山見に甘すぎる」

「三浦はキャプテン面しすぎ。ほんとバカね」

「はいはい、どうもどうも、ありがとうございます。毎日イチャイチャ、幸せですよ？」

「ぐぬぬ……。なんで千沙が信二みたいな奴と……！」

　瑠璃の悔しそうな顔がまた面白い。嫉妬しているように見せかけて、心の底ではちゃんと祝福してくれているのが分かる。

　でもふと、千沙は考える。

（私って、今、信二と付き合ってるんだ）

　忘れていたわけじゃない。でも、自分がちゃんと「彼女」としてふるまえているのか、ふと気になった。

　恋愛というものが、どうもよく分からない。そもそも「付き合う」ことで、どんな意味があるのか、何が変わるのか。正直、信二と付き合ってから、何かが大きく変わった訳ではない。強いて言えば、二人だけで過ごす時間が増えたくらいだ。友人のときと態度を変えるのは、どこか自分を偽っているようで落ち着かない。だからこそ、今のままでいられることは、本当にありがたいと思う。

「おーい、聞いてる？」

　信二の声で、はっと我に返った。

「千沙、どうしたの？」

「いや、なんでもないよ！」

　慌てて取り繕うように言う。

「ただ……そう！　そろそろ夏のコンクールに向けて、頑張らないとって思っただけ！」

「嘘っぽい」

　隣で瑠璃が辛辣な一言を投げる。

「本当だってば！！　それより、……そう！　 野球部もあと少しじゃん。調子どう？」

　私の助けてサインを察したのか、信二はやれやれという表情でフォローを入れる。

「うちらは去年、上出来すぎたからな。今年はチーム一丸となって頑張らないと。一年生にはまあまあの奴もいるけど、今月、二年生の転校生が野球部希望で来るらしい。戦力として期待できるかもな」

「五月から転校生？　めずらしいね」

「親の仕事とかなんとかで。でもまあ、頑張るわ。千紗も頑張れよ」

「うん、応援してるし、頑張るね」

　瑠璃は二人の会話を、まるで自分が楽しんでいるかのように、にやにやしながら見守っていた。

「それでは、今日のミーティングを始めます」

　放課後の朱雀会館。校内にあるこの古びた二階建ての建物は、私たち吹奏楽部にとって特別な場所だ。一階には会議室、二階には和室とシャワー室。合宿所としても使えるが、普段はもっぱら吹部の練習場になっている。今日も部員全員が会議室に集まり、静かな緊張感が漂っていた。

　部長であり、吹部のエースであり、さらにドラムメジャーでもあるクラリネットパートの和田瑞希が立ち上がる。

「定期演奏会、お疲れさま。でも、次はコンクールが待っています。良い結果を目指して、練習に励みましょう」

　瑞希の声はよく通る。少し低めで落ち着いていて、聞くだけで自然と背筋が伸びる。彼女がいるだけで、部活の雰囲気が引き締まるのが不思議だった。

　今年の吹部は特別だ。例年なら部長とドラムメジャーは別々の人が務めるが、瑞希ならどちらも兼任する。誰よりも努力を惜しまない彼女は中学時代から有名な存在で、私はサブドラムメジャーとしてその補佐をしている……という名目だが、ほとんど頼りきりだった。

「質問がなければ、早速、練習に移りましょう！」

「はい！」

　瑞希の掛け声に、全員が一斉に返事をし、楽器の準備に向かう。その様子を眺めながら、私は心の中で少し高揚していた。

　定期演奏会が終わり、緊張感が漂うこの空気。私はこの雰囲気が嫌いじゃない。むしろ、好きだった。最後の大会だし、このくらいがちょうどいい。そんなやる気に満ちた私の背中に、凛とした声が刺さった。

「千沙、ちょっと」

　振り向くと、瑞希が真剣な表情で手を招いていた。

「どうしたの？」

「先生からね、コンクールの自由曲を来週中には決めたいって。それで、新しい候補曲も追加したいって」

「え、新しい曲？　この時期に？」

　思わず目を丸くすると、瑞希が苦笑する。

「そう。だから、この後職員室に楽譜を取りに行ってほしいって」

「うん、いいけど……追加なんて珍しいよね。どうしてだろう？」

　歩きながら瑞希の隣に並び、疑問を口にする。

「たぶん、先生が今の候補曲にピンと来なかったんじゃないかな。それか、もっと私たちに合う曲を見つけたとか。どっちにしても、個人的にはリスキーだと思うけどね」

　確かに、この時期ならもう自由曲を固めている学校も多い。

「まあ、これで本当に良い曲だったらいいけどね」

　少し笑ってそう言う瑞希に、私は軽くうなずく。

　朱雀会館を出ると、外はすっかり夏のような空気だった。青々と茂る木々が太陽の光を受けて輝き、体育館や校庭から部活の声が響いている。風が頬を撫でて心地よい。

　三年目になるが、やはりこの空気が好きだ。来年にはもう味わえない。その寂しさが、一瞬胸をよぎる。

　けれど、ほんの数十分後。

　職員室から戻った私は、さっきまでの爽やかさをすっかり失い、得体の知れない感情を抱えていた。

「ねえ、千紗知っている？　この曲って実は……」

　瑞希の話が、頭から離れなかった。