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第80話 ハンマー。

 ──片目で見ても、やっぱり美味そうだなぁ。


 ミネルヴァ・レギオンの空に浮かぶ雲を見ながら、小柄で凶暴な女が同じ事を呟いた日の光景が脳裏に浮かんだ。


 ──フレイディスより怖いだったな。


 全ての始まりは、お前の母親に会おう──というフリッツの言葉である。


 トーマスにとって母は恐怖の対象だったが、フリッツがモルトケ一家を飛び出すつもりなら付いて行く他なかった。


 彼を凍てつく世界から守ってくれたのは、小柄な異母弟のみだったからである。


 だが、クルノフで再び事態は急変した。


 己の出生に関わる真実を聞かされたのだ──。


「トーマス、こんな所に居たのか」


 丘上の草むらに座り込んでいたトーマスは慌てて立ち上がり、新たな庇護者に対してへつらう様な仕草をして見せた。


「だ、旦那」

「スキピオと何度言えば──まあ、いい。今日はお前に野暮用を頼みたくて来たんだ」

「へ?」


 自分の様な愚図に何が出来るのだろうかとトーマスは思った。


「ニューロデバイスが無いと目立つ場所でな」


 そう言ってスキピオは自身のうなじを叩いた。


「殺しの手伝いと──」


 殺し、という言葉にトーマスの背筋が僅かに伸びた。彼が持つ唯一の得手だからである。


「墓荒らしをして来い」

「は、墓?」

「詳細は別の者から聞かせる。覚える事も幾つかあってな」

「僕──物覚えが悪くて──」


 スキピオが大きな掌でトーマスの肩を掴んだ。


「性悪女のせいで、今のお前は間抜けな屑だが──それでも特別な男の忘れ形見なんだ」


 歯抜けの男が、いかに生き、そして死んだのかを、スキピオ・スカエウォラは胸に刻んでいる。


「俺に任せておけ」


 ルキウス・クィンクティの息子が、腑抜けであって良いはずなかった。


「お前を男にしてやる。そして、何より、アリス──本当の母親と会う為には必要な事だ」


 ◇


 ──本当の母さんに会うのと、どう繋がるのか分からないけど……。


 トーマスがミネルヴァ・レギオンに辿り着いた時、実母アリス・アイヴァースは既に姿を消していた。


 ──早く会いたい。


 ワインボトルを載せたトレイを持ち、トーマスはロスチスラフの許へ歩を進めている。


 ──早く会って──母さん──母さんを──。


 彼が運んでいるのはコヴェナント産の特別なワインだが何の緊張も感じていない。


 ──母さんを、殺さないとっ!


 周囲の現実からは隔絶された想念の中に生きているからである。


「あなたは、ここまでで結構よ」

「──え?」


 と、トーマスが止める間もなく、彼が運んでいたワインボトルをエカテリーナが自ら手に取った。


「確かに年代物ですわね。ジマ家の高祖父まで遡れそうなほどに……」

「ほう? 角邸の逸品が、それほどとはな」


 エカテリーナの珍しく不調法な行動を咎める事もなく、ロスチスラフは常の様子で応えた。


「フフ。ところで──」


 薄い笑みを浮かべたエカテリーナは、ワインボトルを失い立ち尽くすトーマスを見やった。


「は、はい?」

「こちらのワインは、地下のセラーから?」

「──」

「分からない? 大階段の裏手から行ける地下のセラーよ」


 否定するのは不味いと悟り、ともあれトーマスは頷く事にした。


「フフ──でも──おかしいわね。わたくし、晩餐前にメイド長の許可を頂いて、セラーの見学をさせて頂きましたけれど──」


 成熟した大人の女が小首を傾げて見せた。


「こんな年代物は見掛けませんでしたわ」


 下唇を噛んで立ち尽くすホルスト・ジマの卓上へ、年代物を扱うには手荒と言える仕草でボトルを置くと、エカテリーナは凛とした声音を会場に響かせた。


「侯! 御前にて抜剣の許可を」


 本来なら主催者であるイェルク子爵の許可も必要だが、それを咎める者は居なかった。


「許す」

「我が領邦で無法な真似を──ひ、ひぃっ」


 ホルストの抗議の声は、エカテリーナの抜いたレイピアの切っ先に遮られた。


「先に、味見をして頂けないかしら?」


 一幕の意味合いを察した人々が固唾を飲んで様子を窺っている。


「ポロニウムを摂取し──」


 その瞬間、トーマスはトレイを放り投げ脱兎の如く駆け出した。


 ◇


 ──めがみのたて、めがみのたて、めがみのたて、めがみの……。


 と、しきりに口を動かすケヴィンを、女帝ウルドは不思議に思いながらも理由は尋ねなかった。


 戦士のまじないであろうと解釈した為である。


 ──殊勝な事よ。


 中央管区艦隊は鋒矢ほうしの様な陣形を組み、巨大なレギオン旗艦へ向かい亜光速で機動していた。


 壊滅した聖骸布艦隊の陥ったと同じ火中へ、自ら飛び込もうとしているのだ。


「相対距離七光秒」


 レギオン旗艦腹部に備える巨大な砲門が回頭し迫り来る中央管区艦隊へ照準を合わせた。


「高エネルギー反応確認。対消滅波射出されました!」


 オペレータの報告に、ブリッジに緊張が走った。


 ──めがみのたて、めがみのたて、めがみのたて、めがみの……。


「猫様ッ」

「なぁに? ケヴィンのおじさま」


 家庭内における序列は最底辺だが、ケヴィン・カウフマンは女帝と女神にその名を刻んだ男である。


「メ、メガ、ミノタテ」


 オビタルには発話し難い音節を、トールから教えられたまま発した。


「あいさ、了〜解。──そぉれっ!」


 ブリッジの全周モニタがブラックアウトし、トールハンマーとリンクモノリスで繋がれた中央管区艦隊がアンチフェノメンシールドで覆われていく。


「相対距離、六光秒」


 全ての事象をキャンセルする膜に護られた中央管区艦隊は、外部からは存在を検知し得ない状態で五光秒から四光秒の範囲を駆け抜けるのだ。


「五」──「四」──「三」──、

「あふ、もう無理ぃぃぃ」


 白光の射程圏外に入ったところでみゆうから疲労の声が漏れ、再び中央管区艦隊は認知可能な事象面に艦影を表出させている。


 だが、ケヴィンには無事を祝ういとまなど無い。


 ──とおるはんまぁ、とおるはんまぁ、とおるはんまぁ、とおる……。


「相対距離0.5光秒地点より減速し、高速ドライブ移行」


 レギオン旗艦で狙うべき場所は唯一つである。


「貝殻中央へ」


 巨人の座する待針だ。


 ──とおるはんまぁ、とおるはんまぁ、とおるはんまぁ、とおる……。


 ◇


 待て、などと無駄な言葉は発さず、エカテリーナは逃げるトーマスの後を追った。


 ──意外に早い?


 見た目に反して俊敏なトーマスは、抑え込もうとする使用人達の脇を抜けて、大階段を駆け下りていく。


 なお、彼が隠していたのは逃げ足の早さだけではない。


 手元に隠していた小ぶりのつちで使用人を容赦なく殺害している。


 エントランスホールの先に巨大な二枚扉があり、その手前で多数の警護兵が居並んで刀剣を抜いていた。


 追うエカテリーナと警護兵に挟撃される恰好となったが、トーマスは脇目も振らず二枚扉を目指している。


「囲みなさいッ!!」


 と、エカテリーナが警護兵に激を飛ばすと同時、ウオオオオンという狼の様な遠吠えが辺りに響き渡り二枚扉が外から押し広げられた。


 ──こ、子供!?


 扉の向こうに現れたのは、手に槍の様な武器を持つ小人である。


 成人の半分ほどの身の丈だが、皺だらけの顔貌がんぼうが子供ではない事を示していた。


 ──不吉な。


 と、エカテリーナが感じたのは、小人達の額に円環に覆われた十字が穿たれていたからだ。つまりは、グノーシスの印である。


「た、助けて、タロウ!」

「ウオオオオン!」


 トーマスの叫びに呼応して、皺だらけの小人達は槍を振り上げ警護兵達へ背後から襲い掛かった。


「な、何、どこから?」

「化け物だ」

「糞、糞」


 怒号と剣戟の飛び交う乱戦となり、間隙を衝いたトーマスは屋敷の外へ逃げ出した。


 逃亡を助ける為に、一匹の小人が戦列を離れ彼の後を追う。


 小人と警護兵に行く手を阻まれた格好のエカテリーナは、悔しそうにレイピアを突きながら走り去る男の後ろ姿を見送った。


 ◇


「はぁはぁはぁ、ふうぅぅ」


 人影のない路地に辿り着いたトーマスは大きく息を吐いた。


 ここから先は協力者が来るのを待つ手筈になっている。


 ──あ、その前に……。


 自分の後を付いてきた小人の存在を思い出したのだ。


「助かったよ。有難う」

「こ、これは、タロウ」

「うん、よしよし。いい子だね」


 皺だらけの顔貌がんぼうが彼には好ましく映っていた。


 故に、胸が少しばかり痛んだ。


「ちょっと、痛いけど我慢してね」


 そう言ってトーマスは手に持っていたつちを振り上げる。


「必要なんだ」


 小人の脳天につちを振り下ろすと、飛び散る鮮血と脳漿が給仕服に紋様を描いた。

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