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第56話 招待と正体。

「随分と挨拶に来るのが遅かったねぇ、イヴァンナ」


 湯気立つ茶をティーカップに注ぎながら、隻眼の老婆は目の前に座るイヴァンナを睨み据えた。


 品の良い身なりや居室の様子と無骨な眼帯は不釣り合いだが、バイオハイブリッド人工眼球を避けているのは経済的事情では無い。


「も、ももも申し訳ございませんわっ」


 いつになく怯えた様子でイヴァンナが応える。


「──お飲み」


 老婆は薄茶色の液体で満たされた陶器製のカップを、濡れた子リスの如く震えるイヴァンナの前に置いた。


「はひっ!」


 大きな声で返事をした後にティーカップを口許へと運んだ。


「毒は──」

「ぶほっ」

「──入ってないから安心おし」

「こほけほっ──(んぐんぐ)──た、大変美味しゅうございますわ~」

「ふん」


 老婆が鼻を鳴らす。


「あれだけ色々と仕込んでやったのに蓮っ葉さが抜けない女だね」

「は、はあ……。申し訳御座いませんわ」

「何でも語尾に、をつければ良いってもんじゃないんだ」

「もちろんですわ!」


 イヴァンナの返答を聞き、やれやれと言った様子で老婆は肩を竦めた。


「育ちが悪いってのは言い訳にならないよ。私が近頃一番気に入っている子なんざ──いや──まあ、お前に言ったところで仕方がないね」

「い、一から十まで仰る通りなのですけど──」


 唯一つ残された鋭い眼光に気圧されながらも、イヴァンナは自身の務めを果たすべく口を開いた。


「貴方様がフェリクスにお越しとは知らなかったんですの」

「ふん。ミザリーに聞いて、のこのこやって来た訳だね」

「はい──」


 生に執着する女イヴァンナが絶対服従すべき女の名である。


 今回の訪問もミザリーの指示だった。


 ──"ひとつ目殿がフェリクスにいる。目的を聞き出して来い。"

 ──"そ、そんな畏れ多い──というか怖いのですけれどぉぉ。"

 ──"齢二百を越えた老婆だ。些か弱っていようし、いざとはなれば……。"


 だが、溌剌とした様子の老婆を前にしてイヴァンナは話が違うと感じていた。


「ベルツの駄犬を飼い馴らすまでは良かったが──どうにも最近は上手くいっていないように見えるね」


 と、老婆は唇の片端を上げた。


 ベネディクトゥスの支配は維持できず、女帝とロスチスラフの離間も果たせず、カドガンに秘蹟を奪わせるどころかカドガン自体が奪われてしまった。


わたくしの力が至らず──」


 珍しく悄然とした様子でイヴァンナは俯いた。


「ふん。だが──、お前のせいというばかりでもないのさ」

「まあっ」


 イヴァンナは胸元で両手を華のように拡げ途端に明るい表情となる。


「ベルニクの小僧が予想外の傑物だったね」

「傑物というか怪物ですわ」

「お前にしては言い得て妙じゃないか」

「あ、まさか」


 華と拡げた片方の手を、イヴァンナはそのまま口許へ持っていく。


わたくしを手助け頂く為にフェリクスへ越されましたの?」

「はっ」


 面白くも無そうな声音で老婆は嗤った。


飯事ままごと遊びには、もう興味が無いんだ」

「あら、残念ですわ」


 飯事ままごと遊びと揶揄されようとも、彼女にとっては生死を賭した仕事である。


 組織の目的には興味も共鳴も抱いていないが、イヴァンナが生き残るには従うほかになかった。


「──ってミザリーには伝えな。信じるかどうかはあの女次第さ」

「は、はい。ですが、このままでは七つ目が六つ目に──」


 と、イヴァンナが言い掛けたところで、来客を知らせる鈴音が居室に響いた。


「おや」


 老婆は席を立ちあがり、傍にある窓から下を見下ろした。


 フェリクス市街の外れに借りた小さな屋敷で彼女が気に入っている点の一つである。自らの隻眼で来客の様子を窓越しに確認できるのだ。


「噂をすれば何とやら、かね」

「はあ?」


 老婆は窓を開け放つと身を乗り出した。


「サラじゃないか。どうしたんだい?」

「ドルン婦人!」


 上品なワンピースに身を包むサラが白いチーフで覆われた籠を抱えて二階の窓を見上げていた。


 ニューロデバイスがうなじに無い点を除けば、彼女が船団国の奴隷であったとは誰も信じないだろう。


 帝国流を学ぶ為、蛮族三人組──コルネリウス、アドリア、そしてサラは帝都フェリクスに居を与えられたのだ。


「下宿先でアドリア様とパイを焼かせて頂きましたの。それで、もし宜しければと思い──」

「おやまあ」


 イヴァンナの相手をする時とは打って変わり、老婆──ミセス・ドルンは柔和な笑みで相好を崩した。


 ──片割れの馬鹿娘は説教が怖くて来なかったようだね。

 ──ま、アレに相応しいのは剣槍さ。自分じゃ分かっていないようだけど……。


「申し訳ありません。あの──不躾でしたかしら?」

「いいんだよ」


 他人には礼儀作法を厳しく叩き込むが、自身は実践しないミセス・ドルンが呵々と笑った。


「お入り。腹を空かせた女狐もいる。なかなか愉しい茶会になりそうだね」


 ◇


 ──うわ、貴族の食卓っ!


 自身も貴族でありながら居室か艦艇で食事を取る事の多いトールは、長い方形のリフェクトリーテーブルを前に居心地の悪さを感じていた。


 巨大な空間と卓を前に、晩餐会の参加者は四名のみである。


 トールから遠く離れた対面にクラウディア方伯夫人が座し、その傍に「お年頃」の娘エルメンガルトが座していた。


「ほうほう、ひょこで──んぐっ──そこでトール伯は旗艦を狙おうと決めた訳ですなっ!」


 エルメンガルトが咀嚼中に話しを始めるせいか、彼女の口からは零れ落ちる物がやたらと多かった。


 ミセス・ドルンが目にしたなら茨の鞭で矯正する事を決意しただろう。


「そうなんです」


 心に翳りが見える──と方伯夫人からトールは聞かされていたが、当のエルメンガルトは意気軒高な様子である。


 あるいは母が期待した通り、トール・ベルニクと会っているのかもしれないが──。


 なお、エルメンガルトが求めるのは、巷間で流布する絵巻では語られない部分──、


「歴史の真相とは実に奇想天外摩訶不思議ですな」


 例えば、グノーシス船団国の旗艦へ揚陸するに至った経緯などである。


「伯と話していると時が経つのを忘れてしまう」


 感慨深げにエルメンガルトが首を振ると、後頭部で結った銀髪が尾の如く左右に揺れた。


「報道や絵巻では私の好奇が満たされず歯痒い日々を送っていたのです。今宵の晩餐を設けて下さった母君と、何よりプロイスを訪れて下さった伯に感謝を捧げねば──おっと、女神ラムダにも!」


 瞳を閉じて、手早くラムダの印を結んだ。


「いえいえ、ボクの方こそ。方伯夫人にお願いがあって押し掛けたのですから」

「願い? ああ、なるほど」


 と呟いたエルメンガルトは、暫し熟考した後に爽やかな笑みを浮かべて頷いた。


「愚かな叔父に関わる事ですな」

「エルメンガルト」

「失礼しました母君。フランチェスカと語らう時の癖がつい出たようです」

「──え、フランチェスカ?」


 方伯婦人の一人娘とフランチェスカ・フィオーレが知己であったとしても不思議ではない。


「蒼槍の女とは、良き友人なのです」

「へえ、そうだったんですか」

「叔父の件で困り事があるならば彼女を頼るのも一計でしょう。もっとも──」


 これがエルメンガルトの軽挙であるのか、あるいは深謀であったのかは分からない。


「七つ目の一人である母君以上の適任者はおりませんな。はははは」

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