「いいかい、分かったね。私の可愛いトーマス坊や」

「で、でも、若が──」

　数分前に破滅した男のオフィスで愛息トーマスと共にライブ中継を眺めていたフレイディスは、自分に残された時が少ない事を即座に理解した。

「若じゃないッ！」

　フリッツが彼女に囁いていた全ての情報は、ヴィルヘルムを必敗の勝負に誘い込む為の罠だったのだ。

　天下のアホ領主は、カード運に頼らず、資金不足とも程遠かった。正しかったのは手札の良し悪しが表情に現れる点のみである。

　これらの事実は、フレイディスの裏切りをフリッツが知っている事を意味するのだ。

「嵌められたんだよっ！　ベルヴィルのガキに！！」

「ひっ」

　母の怒号にトーマスは身を縮こまらせた。

　支配欲と過干渉に晒され続けた幼少期がトーマスの精神を変容させ、盲目的な服従心をも植え付けている。

「ともかく荷物をまとめて逃げるよ」

「僕も？」

「当たり前だろ！」

　苛立つフレイディスが手を上げたところで、オフィスの扉が荒々しく開け放たれた。

「よぉ、ババア」

　テルミナとフリッツの第一声が期せずして重なる。

「元気だったか？」

「チッ」

「わ、若っ！」

　トーマスは、主人を見付けた忠犬の如く、フリッツに駆け寄ろうとした。

「お待ちッ！」

　そのトーマスの襟足をフレイディスがむんずと掴んだ。

「さっきも言っただろ。マミィの邪魔をする奴は全員殺すんだって」

「で、でも──」

「相手はチビ女あまと妾のガキだけだ。アタシと坊やの二人で切り刻めば──」

「綺麗な部屋ね」

　と、肉人形使い──ブリジットを従えたマリが少し遅れて現れた。

　凶悪なハルバートの刃先に一瞬の怯みを見せたが、それでもフレイディスは虚勢を張って雄叫んだ。

「ここは、メイド風情が来る場所じゃないんだよっ！！」

「そう……。でも──もう、全てがトール様の物だわ」

　マリが告げたのは単なる既成事実である。

「つまり、あなたは不法侵入者」

　◇

「いったい、どういう事なんですか？」

　腕を組んだロベニカが怖い表情で尋ねた。

「──は、はぁ。まあ──その──」

　統帥府長官ヨーゼフの執務室に呼び出されたセバスは、どうにも気まずい状況に追い込まれていた。

「先ほど、ご覧になった通りで御座います」

　パブリックビューイングに居合わせた者全てが見ている。

「いやいや、セバス殿。私の見間違いでなければなのだが、貴方は領邦予算の凡そ三年分を動かされたのですぞっ！？」

　莫大な資金がインフィニティ・モルディブの当座アカウントへと送金されたのである。

「トール様が、これほどの資産をお持ちだなんて……」

　貧乏領邦として苦労した日々は何だったのか──という思いもロベニカの心中にあった。

「いえ。正確にはトール様の資産では無いのです」

「か、借り入れだとしても、ならば相応の資産をお持ちという事になりますぞッ！」

　セバスを責めるのは酷というものだろう。

　送金する権限を委任されているだけで、彼自身はスキームを理解していないのである。

「全ては先代エルヴィン様より託された秘事のひとつで御座います」

「え？　例の地下──」

　書庫と言い掛けたロベニカは慌てて口を閉ざした。

　ヨーゼフが知れば脳卒中で倒れかねない情報だからである。

「私めの権限ではインフィニティ・モルディブ・バンクにしか送金出来ませんし、同行との契約条件に従い資金移動にも制限が掛けられております。現地での決済は自由ですが……」

「つまり、ギャンブル専用資金！？」

　そう決め付けるには、動かせる金額が大きすぎた。

　だが、トールがインフィニティ・モルディブを訪れた際は、非常に大きな金額が動いていたのである。

「以前は良く遊びに行かれてましたものね……」

「左様で御座います。その度に多額の送金をして、全てを──」

　トールは無茶な賭博で金を失うが、カジノ側の得た莫大な利益の一部は、リベートとしてジャンケットのユキハに還元されていく。

「近頃ではカジノなど行かれず私は喜んでおりました。それが、うう──セバスは──」

　忠実な家令は、トールが再び賭博に狂うのではと怯えていたのだ。

「ま、まあ、セバス殿。そう気を落とされるな。何より、今回の閣下は勝ったのですからな」

　気の毒に感じたヨーゼフは、声音を柔らかくしてセバスの背に手を添えた。

　歴史上最高額であろう狂気のベットは、当然ながら歴史上最大のリターンを生んでいる。

　コンコルド効果の陥穽かんせいに嵌はまったヴィルヘルムは、ベットしてしまった資産を保全する為にはゲームを降りられないという罠に陥ったのだ。

　その結果──、

「インフィニティ・モルディブ全ての利権を手に入れちゃいましたね……」

　ヴィルヘルムは命以外の全てを失い、その命すらも生殺与奪をトールが握っていた。

「ホントにもう」

　感心すれば良いのか、呆れれば良いのか、未だロベニカは迷っている。

　──トール様の傍に居ると普通の人生は送れそうにないわね。

　事実その通りとなるのだ。

　◇

　狂乱の一夜が明けた。

　さて、その張本人は、燦々と降り注ぐ陽光の元で船上の人となっている。

「トール伯は、海上に馴れてらっしゃるの？」

　クルーザーの舳先に立って島を眺めるトールの背中へ、海風に飛ばされぬよう鍔つば広の帽子を抑えてグリンニスは尋ねた。

　彼女の後ろに少しばかり蒼ざめた表情のフォックスも立っている。オビタルは船酔いに悩まされるケースが多いのだ。

「いえ。ただ、ボクは酔わない体質のようですね」

　地中海でも長い船旅を経験したが何事も無かった。

「羨ましいですわ。それにしても私達まで同行して良かったのかしら？」

　ユキハの調達したクルーザーに乗船しているのは、彼女とフォックス、そして──、

「ハンスまで」

　物珍し気に海の様子を眺めていたハンス・ワグネルは名前が出た事に気付くと軽く会釈をした。

　確かに異色の組み合わせではある。

　だが、テルミナはフレイディスの身柄確保、フリッツはモルトケの資産整理に追われ、商務補佐官リンファ率いる経済官僚と法務関係者達を迎える準備をマリとクリスが担っていた。

「宝島に行けず、フリッツ君は悔しそうでしたけどね」

　夢にまで見たエドヴァルトの秘宝へ向かう機会を逸したのである。

「とはいえ、何れにしてもハンスさんは来るべきだと思ったんです」

　自分を殺そうとした相手と同じ船に乗るだけでも奇妙だが、グリンニスは屋敷で会ってから一度たりともトールから復讐心や警戒心を感じた事が無かった。

　──豪気というよりも、好奇が勝る方なのかもしれないわ……。

　グリンニスの見立てた通り、トールはハンスに対して多大な興味を抱いていた。

「私がですか？」

「ええ」

　笑んだままトールは頷いた。

「エドヴァルトさんの宝と、その鍵であるユキハさんを守ったのは、レディトゥス・ファウンデーションの基金なんです」

　同財団法人の資産は複雑な経路を辿りホッテンハイムの姓を冠したプライベートバンクに流入している。

「そして、天下のアホ領主は借りた金をカジノで散財する。まさしく愚か者に相応しい行動です」

　トールの中で、過去のトールに対する印象は変化し始めている。

「そうでしょうな」

　遠い海原を見詰めたままハンスは応えた。

「基金の総資産なんてボクには想像も出来ません」

　財団法人の組織構成は未だ判明していない。

「個人、企業、領邦──単体で設立できる規模の基金じゃありません」

　屋敷の地下、船団国で得た情報、グリンニスから聞いたハンスの話、以上を総合してトールは一つの推測を導いた。

　何名居たのかは不明だが、故事に倣えば十二名となろう。

「カッシウスの使徒じゃないんですか？」