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第27話 呪詛。

 ベネディクトゥス 観戦武官の記録――。


 屋敷の地下で眠っていた一冊の本が、トール・ベルニクを英雄たらしめたと言っても過言ではない。


 ――巨乳戦記だけの情報では、旗艦の秘密が分からなかったからね。

 ――それに――、


「文章が良いんですよねぇ。リズミカルで、尚且つ端的なんです」

「は、はあ――」

「情報の出し方も、一気にドバァっとじゃなくて、こう徐々に――」


 ハンスを前にして、トールはひたすら「ボクの好きな部分」を語っている。


「――という訳でして、記録文書でありながら、あたかも小説であるかのように愉しませて頂いた次第なんです!」


 ロベニカ達が領主失踪騒動を起こすほど、彼は地下でハンスの書物に耽溺したのである。


「いや、その――」


 意外な事の成り行きに、ハンスとしても反応に困った。


「――まあ――ええと――読んで頂いて、有難う御座います」

「いえいえ、こちらこそ」


 道化を演じていた頃ならば、頓狂な笑声を上げつつ姿を消すタイミングだったろう。


 だが、今の彼は、数奇な運命を辿った観戦武官ハンス・ワグネルなのだ。


 他方で安堵していたのはグリンニスとフォックスである。


 彼等もイリアム宮の一件は当然ながら知っており、ハンスと面会させてくれとトールから請われた時は刃傷沙汰も覚悟をしていたのだ。


 だが、トール・ベルニクはかつての狼藉など微塵も気にする様子がない。


 さすがは希代の英雄といったところだろうか、とフォックスは内心で舌を巻いていた。


「私もハンスの書物は読み易いと思っておりましたわ」

「んん? ハンスさんは、今も本を書かれているんですか!」

「ええ──」


 グリンニスの説明を聞き、トールの瞳が輝いた。


「なるほど。屋敷に閉じ込めて――あ、いえ、屋敷の客人とされているのは、本を書いて頂く為だったのですね」

「――ええ――まあ──その」

「ボクも読みたいなぁ」

「あら」


 グリンニスは機を見るに敏な幼女である。


「今後も当家にお越し頂けたなら、いつでもご覧頂けますわ」


 ニューロデバイスを喪失したハンスは紙とペンを使い書物を記述するほかにない。


「観戦武官の記録もそうでしたね。お招き頂けるなら喜んで来ますよ!」


 トールの返答を聞いたグリンニスは両のてのひらを打って軽やかに跳ねたが、フォックスは幾分か渋い表情を浮かべた。


「では、トール伯」


 そう言いながらトールの傍へ近付くと、グリンニスは自然な仕草で彼の腕を取った。


「昨晩に申しました通り、屋敷の庭園をご案内しますわ。それはもう見事な――」

「そうでしたね」


 トールは庭に興味は無かったが、これも外交の一環だろうと考えている。


「あ、でも、その前に――ええっと、ハンスさん」


 真っ直ぐな瞳でハンスを見据えた。


「なぜ、ボクを殺そうとしたんです?」


 ◇


「いや、誠に奇妙な人物ですな」


 ヴィルヘルム・モルトケは、デキャンタから黄金色の液体をグラスに注ぎながら呟いた。


「理解に苦しみます」


 仏頂面で座るロマン・クルノフ男爵の前に、音を立てぬようグラスを置いた。


 落ち着いた雰囲気のオフィスからはインフィニティ・モルディブの中心街が見渡せる。


「借款如きで取り入ろうとしたのが、浅慮であったのかもしれん」

「とはいえ、艦隊を引き連れての来訪とは、些か野蛮が過ぎますな……」


 海賊の首領に野蛮と評されたと知れば、トールならば大いに笑ったかもしれない。


「カドガンに立ち寄ったのも、幼き姫君を恫喝して援軍を出させる為かと──」

「それは無い」


 ロマン男爵は即座に否定した。


「奇病を患ってはいるがアレは女傑のたぐいなのだ。脅しすかしで動く相手ではない」

「はあ――左様で?」


 釈然としない表情を浮かべるヴィルヘルムを見ながら、貴様には分からぬだろうが――とロマン男爵は心中で息を吐いた。


「ともあれ、ロマン卿はどうなさるおつもりで?」

「――当面は何もせぬ」

「は、はい?」

「良いのだ」


 ロマン男爵にはトールが目論んでいる企みの全貌は分からないが、攻めぬ――という明確なメッセージを二つ受け取ったと理解している。


 一つ目は、照射モニタで見せられたロイヤルストレートフラッシュだ。


 ――手品まで用意したのは、伯の児戯なのだろう。


 二つ目は、メディアを通してである。


 返済についての財源を問われたトールは、


 ――"ボクにはね、これが有りますから。"


 そう言って自らの頭を叩いた。


 これが意味するところは自明である──と、ロマン男爵は考えていた。


「伯がカジノを訪れたなら、兎にも角にも勝たせてやれ」


 借財を返済できるほどに勝てば良い。


「穴埋めは私がしてやろう」


 金ならば嫌というほどに有る。


 ◇


「そ、それは――」


 あまりに直截な問いに、ハンスは咄嗟の返答に窮した。


「五十年前に起きたベネディクトゥスの悲劇から、あなたはニクラスさんとグノーシス船団国の女性を助けましたよね?」


 ニクラス・ベルツと後に妻となるレナである。


 夫妻は二人の子を成したが、トールが知るのは妹のマリのみだ。


「そしてベルニクの屋敷で二人を匿った。理由は分かりませんが、ボクの父が助力したようです」


 屋敷の地下を集会所としていたカッシウスの使徒達が二人を支えたのである。


「──が、兄弟達の裏切りに遇い、三十年近く前――つまり、ボクが産まれた頃にニクラスさん達は殺されてしまう。生き残ったマリはベルニクで養女となり――」

「彼女が、マリ――そうか――マリですか――」


 ハンスは奇妙な表情を浮かべてマリの名を繰り返した。


「そのマリが生まれた頃、既にハンスさんはベルニクに居ませんでしたね」


 ハンス・ワグネルはイリアム宮の道化に堕とされていたのだ。


「ベルツ兄弟を誑かし、ニクラス達を死地に追い込み、あなたはイリアムに売られた──。いったい誰が裏切ったんです?」


 トールは使徒の中に裏切り者──ユダが居たと確信している。


 尚且つ、その裏切り者は自らの父エルヴィン・ベルニクではないかと考えていた。


 ハンスがトールの命を狙う理由が成り立つからである。


「いいえ」


 だが、ハンスは首を振った。


「誰も裏切ってはおりません。カッシウスの使徒にユダは居ないのです」

「え? となると――ううん――」


 トールは腕を組んで唸った。


 自身が狙われる理由が益々と分からなくなってしまったからだ。


「――頼まれ――いや、そのような生易しいものではないのでしょうな」


 ハンスは、床に目を落とし囁くように告げた。


「私は刻まれました」


 これを伝える事が、果たして正しいのか否かハンスには分からない。


 ――何より因果の狂う恐れがある――いや、既に狂っているのか――。


 だが、ハンスは語る。


 語ってしまう。


 なぜなら、遥かな昔、


「あなたが──、トール・ベルニクが世界を滅ぼす、と」


 最も愛した女の放つ呪詛が、今もハンスの耳朶じだを打ち続けていたからだ。

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