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第26話 ファン。

 教皇領、聖都アヴィニョンでは少しばかり不穏な噂が流布していた。


 ――プロヴァンスで――が――。

 ――馬鹿を言うな。修道院だぞ。

 ――いや、俺の兄貴は聖兵なんだが――。

 ――そんな、まさか?


 人陰で、酒場で、あるいは妻や愛人との秘事の後に声を潜め囁き合う──。


 噂となっている当のプロヴァンス女子修道院では、修道院長が高貴な客人を院長室に迎えていた。


「聖都の変わらぬ静謐さこそ、信仰の砦である証であるな」


 簡素な椅子に腰かけたレオ・セントロマ枢機卿は独り言のように呟いた。


 彼が訪れる際に決まって用意しておく木椅子である。


「教皇が誰であろうとな」

「猊下が仰るほど静謐ではないのですが」


 修道女達の評定書を手元で眺めながら院長は応えた。


 枢機卿の不興を買おうとも、彼女の一日は膨大な職務で埋め尽くされているのだ。


 また、聖レオといえど自身に手を下せぬ事を知っていた。彼女は天秤衆育成に関わる全ての秘事を握り、数多の天秤衆の母とも言える存在なのである。


 ――天秤衆総代とて、私には逆らえまい。

 ――逆さ聖句で肉塊を満たしてやったのは、この私なのだから……。


 故に、己こそが、プロヴァンス女子修道院を体現する存在との自負があった。


「例の噂が院内にも及んでおります」

「ほう?」


 聖レオが、瘦せ細った頬の上にある両のまなこを細めた。


「不心得者――失礼――聖下の昔馴染みが、街の盛り場で騒いでいるとか」

「聖兵どもか」

「ええ」


 聖下の昔馴染み――とは、聖骸布艦隊に所属する兵士を指している。


 聖レオや院長に代表される原理主義者達は、彼等を信仰的に一段低い存在と見なしていた。


 聖兵など諸侯を威嚇する為の番犬であり、俗世の汚れ仕事を担わせる存在に過ぎないのだ。


「あれほどの人数が、アヴィニョンに集うのは些か不穏でありましょう」


 彼等の拠点である艦隊基地は、聖都より離れた小型の人工天体に存在する。


「勿論、貴女の懸念は理解できる」


 教皇アレクサンデルがプロヴァンス女子修道院を焼き討つ──。


 噂は当然ながら聖レオの耳にも届いていた。


 イリアム宮の奥院でも何度か話題に上った事がある。


「――さすがに、そこまで愚かではあるまい」


 信仰の防人が天秤衆ならば、プロヴァンスとはその母である。


 いくらアレクサンデルが不道徳な悪漢であったとしても、聖教会の根幹を揺るがす暴挙に及ぶはずがない──とレオは考えていた。


「それより今日は頼みがあって訪ねたのだ」

「我等も今は諸事が有り」


 陰鬱な声音で院長が応える。


 天秤衆は総力を上げ、ブリジット・メルセンヌを取り戻す為に動こうとしていた。


 院長にとって彼女は使い捨てにして良い駒ではないのだ。


「ブリジットの件は私も念頭に有る。今回の話は、それとも繋がろう」


 無垢な幼子の頃から知る彼女に、レオとて特別な思い入れが有った。


「天秤衆を出してほしい」


 プロヴァンスに足を運んだならば、当然そういう話なのだ。


「一つはマクギガン」


 現在のジェラルドは精神に失調をきたしており、ベネディクトゥスに面する領邦を任せる領主としては心許ない――というのが、エヴァン等首脳陣の見解である。


「そして、今一つがクルノフとなる」

「クルノフ?」


 莫大な借財の最終的解決を図るべく、艦隊を引き連れたトールがクルノフに向かっているのは周知の事実だった。


「何れも異端として断罪せねばならん」


 女帝を擁していない復活派勢力にとって、最も手っ取り早い錦の御旗は「異端」なのだ。


 快気祝いを済ませたとはいえ、太上帝が勅命を下すのは時期尚早である。


「政治の事は分かりかねますが――」

「獅子は草葉に忍び、互いの角で傷付いた牡牛を喰らう」


 ベルニクがクルノフを叩いている所に介入する口実を欲していた。


 領主の私利私欲で動いたベルニクに対し、信仰に基づき動いた──という構図もメディア受けが良い。


「――なるほど」

「無論、私は太古の野生動物を語ったに過ぎぬ」

「承知しておりますわ」

「それにな、院長――」


 ようやく、聖レオは微笑みらしきものを浮かべた。


「我等のいとし子であるブリジットもクルノフに居合わせておるのだ」


 ◇


 グリンニス・カドガンは清々しい思いで翌朝を迎えている。


 屋敷にトールが宿泊した結果、久方ぶりにときが前へ進む悦びを全身で味わっていた。


 ――離れたくない――いえ――離れられないわ。


 傍付メイドに身だしなみを整えさせながら、彼女が考えていたのはその一事のみである。


 ――全てをトール伯に打ち明けようかしら……。

 ――ああ――でも、それでは駄目ね。


 トールの傍では抗エントロピー症が治まる。


 そうトールが聞けば深く同情するだろう。


 多忙な合間を縫って彼女の許へ度々と訪れるようになるかもしれない。


 だが――、


 同情心などという益体も無い感情は、人の動機付けとして薄弱である事を彼女は知っている。


 つまるところ、己に湧いた罪悪感を打ち消す為の作用に過ぎない。


 ――やはり、互いに利のある取引でなければ駄目よね。


 とはいえ、現時点で彼女が提供できるものなど知れていた。


 新生派帝国における立場はトールに遠く及ばず、経済、軍事、何れの面においても日の出の勢いで成長するベルニクが早晩凌駕していくのは明白だ。


 相手はオソロセア領邦と固い同盟まで結んでいる。


 ――せめても、二十の頃であれば……。


 色香で惑わせるか否かは不明だが、噂を信じるならばトール・ベルニクは豊かな胸を愛する。


 かつての彼女には彼の傍にかしずいている女達に優るとも劣らぬ二振りの房があった。


 ――昔の映像でも送っちゃおうかしらね。


 などと、考えていると、


「姫様」


 着替えの終わった頃合を見計らってフォックスが訪れた。


「あら、早いのね」

「伯との約束があったのでは?」


 予定を思い出したグリンニスは、幾分か慌てた様子で再び姿見に目を戻した。


 ◇


 眠れぬ一夜を過ごしたハンス・ワグネルは、赤く充血した瞳で居室の中を歩き回っている。


 グリンニスの為に書物の続きを書く気になど到底なれなかった。


 ――イリアム宮では失敗したが……。


 彼が道化に身をやつしながらも生き続けたのは、最愛の女と交わした約束を果たす為なのだ。


 ――今再び、同じ屋根の下にある。これは、運命――と言うべきなのか?


 だが、哀しいかな、彼は幽閉された無力な存在である。


 鉄鎖でこそ繋がれてはいないが、足首に枷があり全ての行動が監視されていた。


 武器となりそうな得物も手元にない。


 トール・ベルニクと再会するなど有り得ぬと考え、余生は不幸を背負った幼女に捧げるつもりでいたのだ。


「ハンス、朝から悪いのだけれど――」


 独り懊悩おうのうしていた彼の居室の扉が開かれ、フォックスを従えたグリンニスがハンスの承諾など待たず部屋に入った。


「ひ、姫様――フォックス殿――え――!?」


 二人の後ろから、ひょこりとトールが呑気な顔を覗かせた。


 ――こ、殺しに来たのだろうか……。


 ハンスの背を、ひと筋の汗が流れ落ちる。


「いやぁ、ハンスさん」


 復讐に来たと思った男が発する最初の言葉は、ハンスの予想だにしないものとなった。


「あなたの本、とっても面白かったです!」

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