「――ご覧よ。随分と素敵な眺めじゃないか」
高台に立つ白亜の邸宅からエメラルドグリーンの海が一望できる。
その海を大型の旅客船が美しい航跡波を描きつつ徐々に近付いてきていた。
海域に拡がる
「大昔は地中海なんて名前だったらしいけど、大陸が在った頃は海賊達が荒らし回っていたんだよ」
険しい目付きと獰猛な口許が彼女が歩んで来た人生を物語っている。また、赤いジュストコールを羽織ってブーツを履く様は、当人が語った地中海の海賊達が蘇ったかのようでもあった。
ジュストコールの奥は大きく胸元を空け、深い渓谷が惜しげも無く晒されている。
地中海がバルバリア海賊の栄華を誇った時代であれば、この女を巡って血で血を洗う抗争が起きたかもしれない。
「ここなら、アタシが大人しくしてるだろう――とでも連中は思ってるのかねぇ」
何かを思い出すかのように、胸の谷間に挟まれたチャームを手に取って嘆息した。
「どう思う?」
チャームから目を離すと、居室のソファに座る眼帯をした男に目を向けた。
途端に相好を崩し、猫撫で声となる。
「――アタシの可愛いトーマス坊や。眼帯が男ぶりを上げてるじゃないか」
「は、はひっ」
ボウと窓から望む海に見惚れていた殺人鬼トーマスは、突然の質問に姿勢を正して女を見上げた。
「な、何ですかね――ええと――お母さま」
女の話をまったく聞いていなかったトーマスは怯えた声で応える。
そうと気付いた隣に座っていたフリッツが鼻をほじりながら口を挟んだ。
「連中のとんだ勘違いだと俺も思うぜ。
鼻から取り出したひと際大きな成果物を人差し指でピンと弾いた。
「本来、アンタにゃヴォイド・シベリアこそが相応しい」
ヴォイド・シベリアには凶悪犯や危険思想の持ち主を収監する為の獄が在る。
「――へえ?」
トーマスから視線を外し、フリッツに向ける女の眼差しは、一転して冷たいものとなった。
「ちょっと見ない間に、一丁前の口を利くようになったもんだね」
女――フレイディスが、忌々しい口調で憎まれ口を叩いた。
「昔からそうだろ。アンタこそ長い地表暮らしで、脳みそが膿んじまったんじゃねぇのか?」
フレイディスは短く舌を打つと、ペッと音を立てて赤絨毯に唾を吐いた。
すると、何処からともなく小人達が現れ、絨毯の染みとならぬよう唾液を拭き取って再び姿を消していく。
小人達は身長一メートルほどで、皺だらけの表皮にキラキラと輝く大きな瞳を持ち、そして皆が同じ顔である。
「可愛いトーマスから道中の話は全部聞いたよ」
「昨晩は、二人でオネンネしてたもんな」
「親子だから当然さね」
フレイディスは妖しい笑みを浮かべ、他方のトーマスは少しばかり恥ずかしそうに俯いた。
「蛮族共に掴まる海賊――なんて、アタシは聞いた事がないね」
「――そ、それは、そのう、僕が――モタモタと――」
「その蛮族を、ぶち殺して脱出したんだから立派なもんだろうが」
トーマスの言葉を遮り、フリッツが応えた。
「どうだかね――結局はベルニクの盆暗領主に助けて貰ったんだろ?」
「閣下――い、いや――色々と立ち回って野郎の懐に入り込んでなきゃ、アンタの可愛いトーマスも今頃は縛り首だぜ」
「ふん」
その点はフレイディスも認めざるを得ない。
流れに身を任せていたならば、船団国から救出された後はベルニクの収監施設に放り込まれていただろう。
自由な身柄で軌道エレベーターから地表に降り立つ事も叶わなかった。
つまり、親子が感動の再会を果たせたのは、フリッツの機転に依るところが大きい。
とはいえ――、
「けど、アタシが何より気に入らないのはね――」
我が子トーマスを溺愛するフレイディスには、容易にフリッツを認める訳にはいかない事情がある。
「トーマス坊やに
フレイディスは目を細め睨んだ。
「嘘はいけないねぇ。フリードリヒ・ベルヴィル」
その名で呼ばれたフリッツは、人知れず奥歯を噛んでいた。
「
◇
「ふわぁ、ホントに綺麗な海ですよ」
旅客船のデッキに立って身を乗り出すように海原を眺めるトールの傍らで、首席補佐官のロベニカが、々とした面持ちで彼の背中を掴んでいる。
大事な上司が船から落ちないようにという心遣いのつもりだが、傍目には洋上を怖れるオビタルそのものに映った。
オビタル──軌道人類とは地表を捨てた種である。
地表世界など見ることもなく生涯を終える者が大多数であり、海を目にする事も、ましてや海原を船で旅するなど想像の埒外なのだ。
そういった意味で故野人伯爵ディアミドの熊狩りなどは、オビタル社会ではマチズモを感じさせる行為であっただろう。
「トール様ッ!! あ、あまりに身を乗り出し過ぎですっ!」
地上に行くから軌道エレベーターの手配を――と頼まれたのは十日ほど前の話だった。
存外に楽しかったプールパーティの事などを反芻していた昼下がり、彼女の執務室をトール自らが訪れたのである。
「へ?」
意外な申し出に、ロベニカの返答は些か間の抜けたものとなった。
「地球に――というか、地球の地上に行きたいんです」
自身の足下を指差しながらトールが告げた。
「軌道エレベーターで行くんですよね?」
「そ、そうですけど――」
軌道都市から何本かの軌道エレベータ―が地表へと串差すように穿たれている。
全ては赤道直下に残った島々に繋がっていた。
先史文明の時代には赤道以外の地域にも在ったとされるが、相対位置を維持するのに莫大なコストを要するため廃棄されたのだ。
太陽系に住まう地表人類の殆どは生産活動と共に火星へ移っており何ら支障が無かった。
「いったい何をしに行くんですか?」
――まさか地表でバカンス……。有り得ないけれど、トール様って変わってるし……。
「昨日、フリッツ君と、色々とお話ししたんですよ」
「海賊と?」
「アハハ。でも、今は違いますよ」
正式に特務機関デルフォイの一員として遇している。
「以前から、妙に彼が物知りなのが気になっていたんです」
月面基地に居並ぶ聖骸布艦隊を見ただけで船団国へ遠征すると勘付いていた。また、城塞や待針の森に繋がる台座についても何かを知っている
「あと、うちに雇われる為にモルトケ家を抜け出したって話も――」
――モルトケ一家の次男坊だよ。海賊なんてチンケな商売が嫌で抜け出してきたんだ。ベルニクで拾ってもらうつもりで――随分な遠回りになったもんだぜ。
などと、嘯いている。
「でも、なんだか、嘘っぽいじゃないですか?」
「元海賊なんですから幾らでも嘘をつくと思いますけど……」
「ええ。だからね、お互い本音で話しましょうって言ったんです」
トール・ベルニクは常に胸襟を開く事で事態を進めて来た。
「──で、やっとフリッツ君の目的が分かりました。お母さんです!」
「は、はい?」
「お母さんの所に、トーマスさんを届ける為だったんですよ」
というような次第があり――、
トールとロベニカは船上の人となっていた。
地表世界においては航空機の運用が禁じられており島から島への移動は船舶に限られる。
空から上はオビタルの支配領域である事を示すと同時、地表人類が良からぬ野心を抱かぬ為の施策でもあった。
「あ、見えてきましたよ」
興奮した様子で、両手を双眼鏡としたトールが声を上げた。
大型の旅客船の先には、巨大な港湾を擁する美しい島が見える。
「あの島に、フリッツ君達は、先に着いてるはずです!」
「なぜ、一緒に行かなかったのです?」
「だって、ほら」
トールが邪気の無い笑顔を浮かべた。
「お母さんと、水入らずで会いたいかなと思いまして」