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第37話 カドガンちゃま。

 カドガン領邦を治めるグリンニス・カドガン伯爵は、本日でめでたくも八十歳を迎えた。


「グリンニス様に――」

「伯のかわゆ──い、いや美貌に!」

「カドガン伯の変わらぬ叡知に!」

永久とわの栄光を」


 客人達の声とグラスを打ち合う音が響くと同時、品の良い演奏が始まり人々の間で談笑が始まった。


 グラスと軽食を運ぶ使用人が彼等の間を器用に動き回っている。


 ありきたりな貴族の催すパーティであり、女帝ウルドならば「つまらぬ」の一言で後にしたかもしれない。


 女帝に対して敵愾心を抱いているグリンニス・カドガンも、期せずして同じ思いを抱いていた。


「――つまらない」


 グリンニスは、祝福される側として、また領主として、広間の一段高い位置に据えられた椅子に腰かけている。


 銀髪を左右に結び、馬の尾を両脇に垂らしたような幼子めいた髪型だった。


 本人の希望か傍付メイドの遊び心であるかは分からない。


 ともあれ、グリンニスは床に届かぬ足を揺らしながら、同じ言葉を繰り返す。


「本当につまらないの。――帰って良くて?」


 そう言って、隣に立つ男を見上げた。


「フォックス」


 燃えるような赤髪と細い切れ長の目をした若い男だ。


 軍の礼服を纏っているが、研究衣の方が似合いそうにも見えた。


「いやぁ――それは不味いですよ」


 フォックスは赤髪を掻きながら言った。


「姫様の誕生日じゃないですか」

「言われなくても、分かっているけれど――」


 爪を噛みそうになっていることに気付いたグリンニスは慌てて指先を膝の上に戻した。


「時が惜しいわ」


 そう語る彼女の気持ちが理解出来るフォックスは、寂し気な表情を浮かべる。


 グリンニス・カドガンに残された時間は少ない。


 後数年も経てば論理的な思考に支障を来たし発話能力も著しく衰える。


 やがては、二足歩行すら困難となり四つ足で床を這わねばならない。


 遂には寝て泣くだけとなり――その先は――誰にも未だ分からなかった。


 グリンニス・カドガンは世紀の奇病、抗エントロピー症を患っている。


 銀冠を戴く彼女は、再び赤子へ還るのだ。


 ◇


 終局の島に在るとされる城塞──。


 ラムダ聖教会の一部派閥とグノーシス船団国が求めている――との噂は以前より耳にしていたが、何らかの暗喩的表現なのだろうと興味など抱いていなかった。


 事情が変わったのはベルツの異端者を国内に匿ってからである。


 不運な事よ――と、単なる同情心からだったが、彼等の活動はカドガンの諜報機関が監視をしていた。


 故に、ルーカスとウルリヒが気の良いニクラスに働いた汚い裏切り行為も把握している。


 ――城塞――抗エントロピー場――。

 ――時が遡行している――。


 兄弟達の会話記録はグリンニスの興味を大いに引いた。


 四十も半ばを過ぎた頃より、彼女の身体年齢が徐々に退行していたからである……。


 生命とは、エントロピーの増大に抵抗し続け、やがては混沌へ還っていく。


 だが、グリンニスの場合は抵抗どころか、エントロピーを減少させているのだ。


 この原因を究明する為、領邦内の研究機関に多額の投資を続け、広く内外から優秀な研究者を招聘した。


 結果、ロイド製薬という巨大企業を育てる副産物を生んだが、彼女の身に起きた症状を解明するには至っていない。


 ――けれど、城塞に至れば何か分かる可能性はある……。


 時が遡行するとされる場所なのだ。


 彼女の身体に起きている異変と、まさしく同じ事象と言えた。


 一刻も早く城塞に調査団を派遣したいグリンニスとしては、ベルツの呪われし兄弟がベネディクトゥスを取り戻すのは好都合だったのである。


 ところが──、


「ベルニクには困ったものだわ――」


 退屈なパーティを終えたグリンニスは、居室へ戻る前に独りの小男が暮らす部屋を訪れていた。


 小男の経歴を鑑みるなら、些か豪胆な行動と言えなくもない。


「――あなたも同感でしょう?」

「そうでございますねぇ」


 背を見せたまま机に向かい書き物を続けながら、小男は気のない返事をした。


「何を書いているの?」

「無論、あなたが望まれたものを――ふぅ――とりあえずキリが良いところまでは書けました。少しばかり記憶も曖昧なのですが――」


 そう言ってペンを机に置いた後、小さな背を伸ばした。


 残り少ない金色の毛髪を撫でながら、ようやくグリンニスの方へ振り返る。


「順調そうで良かったわ、ハンス」


 ハンス・ワグネル。


 女帝ウルドに仕えた道化にして、トールを襲った後に逃亡――。


 イリアム宮の獄へドミトリが救いに行った際には既に姿を消していた男である。


「良いのか――悪いのか――もはや、私には判断し兼ねるのですが――」


 昏い瞳でハンスは溜息をついた。


 横槍に入ったベルニクを追い払う為にカドガン領邦は出兵の依頼を受けた。その代償として要求したのがハンス・ワグネルの身柄だったのである。


「どこまで、書けているの?」


 ベネディクトゥス観戦武官の記録――。


 道化に堕とされた彼こそが当時の観戦武官だったのである。


 ベルツ家の秘所にある城塞、そして観戦武官ハンス・ワグネルの持つ情報は、抗エントロピー症を患うグリンニスにとって重要な意味を持つ。


 故に長年ハンスを欲していたのだが、内裏だいりの奥には手が出せずにいたのだ。


「ニクラスと――レナを、エルヴィン様の許へ匿ったところまでは──」


 ベネディクトゥスに異端審問の嵐が吹き荒れ、ニクラスとレナは逃亡中の身となった。


 ベルツ家の次男と、グノーシス船団国の女――。


 観戦武官の務めを終えてベルニクに戻っていたハンスは、親友のニクラスを助ける為に危地へ飛び込んだのである。


「そう」


 ここから先の記憶は、彼にとって辛いものが多くなる。


 友情、嫉妬、幾つかの悲劇、そして道化へ堕とされ――。


 同じく秘事を求めたエヴァンには明かさなかったが、グリンニスには全てを伝えようと決めていた。


「読みたいけれど――明日にするわ――ふぁ」


 小さな欠伸を漏らす彼女を見るハンスの眼差しに優しさめいたものが宿った。


 ◇


「姫様」


 ハンスの部屋を出ると、外にフォックスが待っていた。


「心配性ね」

「い、いえ――」


 軟禁したハンス・ワグネルの足首には、脳神経と連動する枷を嵌めているのだ。


「――それより、姫様。ランドポータルの先で少し気になる動きがありまして」


 ベルニク、オソロセア、マクギガンの三領邦がフェリクス防衛陣を敷く宙域である。


「威力偵察により判明したのですが――艦隊の一部がベルニクへ戻ったようです」

「規模は?」

「数よりも、問題は戻った将校です――」


 その名は、尾ひれ付きの噂と共に広く知られている。


「――ジャンヌ・バルバストル。白き悪魔が消えました」


 ジャンヌが降り立つ戦場には血の雨が降る。


「まあ、彼女が」


 単純に考えるなら、ランドポータルの防衛力が幾分か弱まった事になる。


「彼女の行く先こそが戦地になろうかと」


 ベルニクは、カドガン以外と戦おうしているのではないか、とフォックスは言いたいのだ。


「なら、今こそが好機と言えるのかしらね」


 グリンニスは一刻も早くフェリクスを陥としたかった。


 ――赤子になる前に……。


 彼女は幼い姿で腕を組んだ。


「少々のお時間を頂きたく――。私の──ロイド家の伝手つてを当たってみましょう」


 と、細い目をしたフォックス・ロイドは告げた。

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