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第33話 嵐の前に。

 クリスティーナ・ノルドマンにとってベルニクで過ごす日々は不愉快なものとなっている。


 奴隷となるところを救われた点は感謝すべきだが、何もかもが彼女の気に入らない状況だったからだ。


 まず、弟のレオンが黒髪の剣闘士風情に懐いてしまった。


 父は父で誘拐犯の一味であった首席補佐官と毎日のように会って何事かを相談している。


 そして──、


「お姉さま――ブリジット様。何とお労しい……」


 自分を妃に欲しいと言ったらしい男の執務室を、女男爵メイドと共に白痴のブリジットが掃き清めていた。


 クリスにとって見るに堪えない光景である。


「その女はホントに悪い奴なのです。それに、ブリジット様にはもっと相応しいお務めが――」

「うう」


 クリスが迫ると、ブリジットは泣きそうな表情を浮かべ、逃げるようにマリの背へ隠れた。


 ――ああ、なんて悲劇的なのかしら。このままでは、お姉さまがメイド服姿になってしまう日も近いわ。



 天秤衆の装束姿を脳裏に浮かべ、クリスは思わず落涙しそうになる。


「おはようございます」


 そんな彼女の悲嘆をよそに、朝から能天気な声音で挨拶をしながらトールが執務室に入って来た。


「おはよう」

「うぅ」


 メイドと元修道女が頭を下げる。


「クッ――」


 クリスは恒例となりつつあるトールへの怒りの発散を敢行しようと拳を握った。


 この為に朝早くから執務室を訪れたのである。


「ちょっとアンタね、伯爵だか元帥だか知らないけど――」

「童子よ、実に殺風景な部屋であるな」

「――け、けど――え!?」


 トールの後に続いて姿を現した巨躯に狼狽え、クリスは次の言葉が出てこなかった。


「はあ、そうですかね」

「我が良き調度品を取り寄せてやろう」


 旧帝都のアレクサンデル邸を思い起こし、トールは慌てて首を振った。


「金ぴかは――あ、いや、ともかく結構です」


 黄金で贅を凝らした調度品など、彼からすると悪趣味にしか思えなかったのだ。


 ――何より落ち着かないしね。


 金を惜しむ男ではなかったが浪費や贅沢とは無縁であり、この点について商務補佐官リンファ・リュウなどは苦言を呈している。


 ──質素倹約など愚の骨頂です。持てる者が使ってこそ、経済とは上向くのです。庶民のマインドとは――云々といった次第である。


 故にトールは金を使う方策を考え、トジバトル・ドルゴルに差配を任せていた。


「ま、良いわ。ところで麗しの我が肉人形は、なぜこの部屋におるのだ?」


 ブリジットに気付き、悪漢が尋ねた。


「どうにも、マリが好きみたいなんです」


 屋敷に来た当初は白痴の笑みを浮かべたまま日がな聖堂で過ごしていたのだが、マリと出会ってからは彼女の傍を片時も離れなくなってしまった。


 セバスによれば、寝室も共にしているようである。


 ――という事は――お風呂も――ゴクリ。


「トール様、お風呂は別だから」

「え!?」


 驚くトールの表情にマリは僅かに頬を緩める。


 彼女のエロスレーダーは──トール相手に限ってのみとなるが──もはや人智を越えた鋭敏さを備えるようになっていた。


「ほう――」


 アレクサンデルは、ようやくマリの存在に気付き、瞳を細めて彼女を見据えた。


「――なるほど」


 その視線は、ブリジットを怯えさせたらしい。


「死にぞこないへの忠誠か」


 誰にとっても意味の分からぬ言葉であった。


「巫女への妄執――いずれであろうな」


 ◇


 アドリア・クィンクティは、不安と絶望の底にある。


 ――明るい側面なんて見えそうにないわ……。


 愛用の眼鏡を外し目頭を軽く抑えた後に、息を吐きながら机の上に突っ伏した。


 ルキウス邸の自室に籠ったまま、板状デバイスでメディアと世間の反応に怯え続けている。


 祭祀庁より船付神官解任の報せを受けたのは昨夜の事だった。


 ――ああ――お父様――何て無茶なことをしたのかしら……。


 恩義のある相手とはいえ、さすがに恨みがましい気持ちとなっていた。


 ルキウスが帝国と結んだ条約とその後の顛末については、発表より一週間ほどの遅れとなったが、グノーシス船団国内においても大々的に報道されている。


 ――誰も彼もが怒っているわ。


 条約締結のメリットではなく、奴隷解放や略奪停止という部分がセンセーショナルに取り上げられていた。


 さらに、執政官が格下の存在として扱われたという点も、国民の怒れる炎に油を注ぐ結果となっている。


 ――とりあえずは、世間の皆様のほとぼりが冷めるのを待ちましょう。


 と、問題を棚上げしたアドリアは、自分が酷く空腹である事に気付いた。


「何か、食べないと」


 声に出して独り呟き、椅子を立ったところで部屋の扉が叩かれる。


「――アドリア様」


 使用人の声音に、幾らか緊張感が混じっている事に気付いた。


 アドリアは眼鏡を見えぬところに隠し、細身のペーパーナイフを袖下に滑り込ませる。


「サラね。ど、どうしたの?」

「お客様がお見えです」


 招かれざる客なのだ──、とアドリアの直感が告げる。 


「えと――あのう――今日は体調が優れないので――」

「きゃあっ」


 アドリアが言い終える前に、サラの悲鳴に続いて荒々しく扉が開け放たれた。


 部屋に倒れた彼女の背後には、黒いチュニックを纏うソルジャ達が立っている。


「誰っ?なな、なんですかっ!!」


 震える声を抑える余裕など無かった。それどころか、油断すれば失禁しかねない。


「徽章に目を凝らして頂けますかな。グノーシスの僕たる神職様なら我等を歓迎して頂けるはずですが――」


 人壁の向こうから不遜な声音が響く。


 眼鏡を外しているアドリアは目を細め、恐怖を堪えてソルジャー達の胸元を見詰めた。


「あ、あなた方は……」


 サークルに五芒星、つまりは超原理主義団体、梵我ぼんが党であった。


「ククク、その表情――堪りませんな」


 人垣を分け、後ろに居た男が前へと進み出る。


 ソルジャー姿であるのは同じだが、他とは異なり白地のチュニックを纏っていた。


 消したい記憶を刺激する相手の風貌に、アドリアは足元から力が抜けていくのが分かった。


「覚えていて下さいましたか」


 男は満足した様子で笑みを浮かべる。


「となると──、唾棄すべきクィンクティの養女になったとはいえ、カッシウス家の誇りも覚えていましょうな?」


 幼き頃の絶望が彼女の内に蘇る。


「アドリア・カッシウス嬢」

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