女帝ウルドの刻印の誓いより五日が過ぎている。
オリヴィア宮に滞在した使節団一行は大いに歓待を受けていたが、母の会代表のジュリアは目覚めた後も体調不良が続き居室に籠る次第となった。
なお、船団国では手に入らぬ食材の数々で調理された療養食に、彼女が舌鼓を打っていた点には触れておかねばなるまい。
さておき――、
彼等が飲み食いと国許への手土産選びに勤しんでいる間、ルキウスは諸侯らと共に国交締結に向け実務的な協議を続けていた。
現状、最も問題となっているのは、女帝ウルドが「くれてやる」と宣した領地を
「領地を船団国に渡すと知られたなら、敵兵は背水の陣となる」
諸侯が恐れているのはその点だった。
「ですから、グリフィス領邦を渡すと大々的に宣伝します」
ノルドマン一家を使ったプロパガンダを含め、ソフィアチームは実に多忙な日々を過ごしている。
「どのみちエヴァン公が敵の首謀者なんですから、グリフィス領邦の方々は既に背水の陣ですよ」
そう言ってトールは無邪気に微笑んだ。
◇
「大変、お世話になりました」
帰路に就く前夜、ルキウスは護衛官スキピオを伴い、ベルニク領邦領事館を訪れていた。
「いえいえ、こちらこそ」
呑気なオーラを放ち二人を出迎えるトールの背後から、ロベニカはルキウスの側を片時も離れない男に油断のない視線を送った。
ルキウスの護衛官と聞いてはいたが、謁見の間から諸侯会議に至るまで常に臨席しているのだ。
「彼はね、スカエウォラ家の三男坊なんですよ」
敏いルキウスがロベニカの視線に気付き応えた。
「──え──し、失礼しました」
「と言っても、その名が意味を持つのは船団国だけですが──」
氏も名も関わりなく、極短期間の滞在でオリヴィア宮に仕える女官達の心を鷲掴んではいた。
「彼の父コルネリウス・スカエウォラは、ミネルヴァ・レギオンの総督なんです」
「そ、そうだったのですね……」
グノーシス船団国には五つの氏族──
レギオン総督、大神官、司法官、民会議員などの要職は、基本的には氏族達が独占していた。
「その中の一つであるスカエウォラ家は私の後ろ盾であり、尚且つ恩人でもあります」
彼が恩人と語る理由に見当のついたトールは質問を挟まなかった。
「巡礼祭で開かれる氏族会議に参加しないとの確約も得ました」
「──良かった」
と、トールは言葉少なく応えた。
「ともあれ、これで巡礼祭にて決するでしょう。ポンテオが動くのはその時をおいて他にありません」
ポンテオ率いる原理主義勢力がルキウスを廃し条約破棄に動くならば、全ての氏族が集まる巡礼祭はうってつけのタイミングとなる。
「ミネルヴァを除く全ての氏族が首船に集まるのです──フフッ」
ルキウスの声音に触れれば火傷を負いそうな熱が篭った。
「一網打尽にできましょうな」
笑みを浮かべると覗く欠けた歯も、この場においては可笑しみを感じさせない。
「執政官」
この点については、トールも口を挟まざるを得なかった。
「彼等が受け入れる可能性もありますよ」
その為に領地割譲という禁忌に踏み込んだのである。
住み慣れた土地を追われるグリフィス領邦民が抱く遺恨は後世に大きな禍根を残すだろう。
そのリスクと船団国の安定化を、トール・ベルニクは天秤に掛けたのだ。
だが、天秤の傾き具合など市井の民からすれば関係の無い話しである。
代替地を提示したとしても、住み慣れた土地に根付いた想い出は決して贖えない。
「勿論ですとも。あまりに寛大な申し出を用意して頂きました」
心中の熱を冷ましながらルキウスが語った。
「船団国へ戻り次第、全力で説伏に当たります。 巡礼祭を私が生き長らえたなら全てが変わるのです。数多の問題が残ろうとも価値ある未来が拓けましょう」
だが、その素晴らしい未来予想図は、ルキウスの魂を震わせはしない。
「他方で悪い目が出た場合にも備えねばなりません。何より私が案ずるのは両国の距離です」
タイタンポータルを抜け、円環ポータルから首船プレゼビオに至るには凡そ十日を要する。
このタイムラグが、女帝ウルドの約した討伐の成否を左右しかねなかった。
「情報の伝達については、方策があります」
テルミナ・ニクシーを彼等の帰路に同行させれば、EPR通信を用いて状況を知る事が出来る。
「ああ──失礼、そうでした。スキピオ君にテルミナ殿を案内して貰うのでしたね。私が首船で虐められている間はミネルヴァ・レギオンで待機されれば良いでしょう」
「ルキウス」
初めて、スキピオが口を開いた。
ルキウスが首船に戻り声高に主張したなら、あらゆる政治勢力から攻撃の的とされる。
狼藉者の刃で襲われる可能性もあった。
それらからルキウスを守る為に自分が居るのではないか、とスキピオは苛立っていたのである。
「優先事項を違えてはいけませんよ、スキピオ君」
そう言って、相手の背を叩く。
「君は最悪時に備え、トール伯の
ここから先の言葉はスキピオの鼓膜のみに響いた。
「──我等のクイーンの魂を解放するのです」