「ルキウス」
早朝に居室を訪れたスキピオ・スカエウォラは、眠そうな顔で椅子に座る友人の名を呼んだ。
「――やぁ、おはよう――ふわぁ」
欠けた歯を隠そうともせず大きな欠伸をした。
「寝てないようだな――。さすがのお前でも緊張しているのか?」
彼らが乗船する執政官専用艦は、月面基地を発ち帝都フェリクスへと向かう途上にあった。
建国以来、正規の外交手段で訪問する初の執政官となるのだ。
「いえ別に。ただ、ちょっとした娯楽小説を読んでいたら意外に面白くてですね」
「ほう?」
ルビコン川を渡ろうとしている男にしては、随分な余裕だとスキピオは感心する。
「――帝国のEPRネットワークで公開されているものなんですが、どういうルートでかグノーシス船団国にも流布してるんですよ」
「運び屋がいるんだろうな」
ルキウス・クィンクティが秘かにオソロセア領邦と共益関係を築いたのと同様に、帝国内の領邦や組織――その多くは海賊であるが――と繋がりを持つ勢力は他にも存在する。
「この小説、我々の国も登場してて――」
「親父からだ」
娯楽小説などに感心を持たないスキピオは相手の言葉を遮り、小さな円筒状のデバイスをルキウスに放り投げた。
「――おっと」
両手で受け取り、セキュアFAT通信であると確認する。
「念入りですね」
「当たり前だろ。おまけに俺達は帝国に居るんだぜ?」
そりゃそうだ、と呟きながらルキウスは円筒状のデバイスを自身の瞳に向けた。
虹彩認証が行われた後、網膜に文字が投影される。
――
「良かった」
ルキウスは破顔する。
「スカエウォラ家――いや、ミネルヴァ・レギオンは友情を選択したようです」
巡礼祭に参加しないという事は、同時期に開かれる氏族会議にも列席しない事を意味した。
「そんな綺麗なもんじゃないさ」
スキピオが肩を竦めて応える。
「恨みと野心だろう。お前だって親父の性分は分かっているはずだ」
「ええ、勿論。因果を決して忘れぬ義理深い御方です。つまりはカッシウス家への消えぬ友情の証し――と、未だ傷の癒えぬ娘には伝えておきましょう」
そう言いながらルキウスは席を立った。
「何れにしても、スキピオ君の父上には、またも借りが出来てしまいました」
ルキウスが解放奴隷でいられるのも、スカエウォラ家が彼の父を自由奴隷とした為なのだ。
「君との友情に天秤の傾きが影響しない事を願います」
「お前は兄――」
「スキピオ君」
今度は自分の番だとばかりに、ルキウスは相手の言葉を遮った。
「私は寝ます」
眠そうな声でルキウスが言う。
「――よく考えたら、明日は大事な日ですからね」
などと今さらな事を呟き、居室の端に在る寝台へと向かった。
◇
グノーシス船団国の使節団訪問が
随伴したケヴィン少将のトールハンマー号と共に、二隻の異様な姿の巨艦が宇宙港天蓋部ゲートから現れる様を、メディアを通じて多くのオビタルが幾分かの驚きを持って目の当たりにしている。
蛮族と蔑み怖れても来た国と
これに合わせ、新生派に与する各領邦の報道官達は、一斉に公式なコメントを発表している。
ベルニク領邦統帥府報道官となったソフィア・ムッチーノも同様であった。
「陛下の御威光が、かの国をも照らす吉兆となりましょう」
本件におけるトール・ベルニクの動向を問われ、ソフィアは豊かな胸を反らせて応える。
「無論、閣下の御尽力の賜物でもあります。なお、今回の慶事に合わせ、一部解放された帝国臣民をベルニク領邦にて預かっております」
「――異端――いや、グノーシス船団国に攫われた人々という意味ですか?」
「そうです」
質問者に向けてソフィアが頷いた。
「ベルニク領邦で預かる理由は――」
「彼等が
ソフィアは長い睫毛を伏せて目元にチーフを当てた。メディアに流れる際の映えを考えての所作である。
「後日、会見の場を設けますけれど、高官でありながら簒奪者へ反旗を翻した方までいるのです」
元
彼等をプロパガンダに利用すべく、ソフィア率いるチームでは既に幾つかのプロジェクトが動き始めていた。
トールとルキウスが交わした友誼を含め、実に大衆向けのナラティブが形成できるのは確実だろう。
――そうだ、映画も作っちゃいましょう。
記者達の質問に上機嫌で応えつつ、ソフィアの中では次々に大衆を煽動する為のプランが浮かんでいく。
――ただ、例の報告は気になるわね……。
月面基地にて、グノーシス船団国より引き渡された帝国臣民の人数は百三十名であった。
そこから地球軌道都市に在る屋敷へと移送したのだが、移送直前に二名の行方が分からなくなっている。
――まぁ、元海賊とい情報が事実なら、逃げるのも当然でしょうね。
海賊には極刑を科される可能性が高い。
とはいえ、行方をくらませたのが月面基地ならば、隠れる場所など有りそうにもないというのが治安機構の見解だったが──。
◇
「少しは印象が変わりましたかね?」
ルキウスは、母の会代表のジュリアを振り返って尋ねた。
オリヴィア宮に到着し車を降りた使節団一行は、廷吏や女官達の出迎えを受けている。
宮の正面口まで赤い絨毯が敷かれているのは、船団国使節団を国賓として遇するという意思表示なのだ。
ジュリアは幾分か面食らった様子で、帝国側の歓待を受けていた。
さらに言えば、改築したばかりのオリヴィア宮の壮麗さにも、若干の
彼我の国力差は原理主義者であろうとも認めざるを得ない厳然たる事実である。
――グノーシス船団国など、所詮は野盗の集まりに過ぎないのです。
かような思いをルキウスは言外に匂わせていた。
「ま、まあ――船団国を恐れているのだから当然でしょうね。女神ラムダの寵愛を受けているのは我々なのだから――」
強気を装って応えるジュリアとて、笑みを浮かべる余裕まではなかった。
「皆様」
赤絨毯の先、見上げるほどに高い扉の前で待っていたのは、侍従長のシモン・イスカリオテである。
「遠路遥々の来臨に、ウルド陛下より、望外の
ともあれ、来てくれて女帝も喜んでいる──と言いたい訳である。
「痛み入ります。私共も望外の――何だか噛みそうです――ハハ。ともかく嬉しいですよ」
微笑み応えるルキウスは、あるいはトールと終生の友となり得たかもしれない。だが、
侍従長シモンは深々と頭を下げて言った。
「それでは、これより謁見の間にご案内致します」
「はい」
と、ルキウスが素直に従った時の事である。
「――お待ちなさい」
シモンの後に続こうとしたルキウスの袖を強く掴み、血相を変えたジュリアが囁いた。
「謁見の間?」
「ええ。でしょうね」
平然とした様子の相手に、ジュリアは苛立ちを募らせた。
「執政官という立場で行くおつもりかしら?」
謁見の間とは、己より身分が低いと見なした相手と会う場である。
帝国に朝貢すべき周辺国と位置付けられたのだ。
「駄目です。断わりなさい!! これでは、死した英霊達の――」
「ジュリア」
外交専権を伴い女帝の許へと至る道が開かれたのだ。
もはや、ルキウス・クィンクティに怖れるものなど何もない。
「少しの間で良いのです」
故に、彼はもう隠さない。
「その臭い口を閉じなさい」
道化の仮面を取り去る時が来たのである。
「虫酸が走る」