教皇アレクサンデルと共に月面基地を発ったトールは、帝都フェリクスに降り立っている。

　使節団一行については月面基地にて待機中であった。解放されたクリス達は秘かにトールの屋敷に運ばれ、メディアには未だ秘された状態にある。

　他方、オリヴィア宮では、

「余は構わぬが──」

　唐突にトールが来訪した為、ウルドは急ぎ銀髪を結い直し、纏う衣装も華やいだ色合いに変えたが相好は崩さぬよう細心の注意を払い出迎えている。

　そもそもが、武骨な用向きであった。

「筋から言って、ロスチスラフは気分を害するであろうな」

「そう。それなんですよ」

　我が意を得たりとばかりに、丸テーブルを挟み座る男が大きく頷いた。

　──あの夜を偲ばせる風情じゃな……。

　詩編大聖堂にて、自身の寝所にトールが押し入って来た日を脳裏に浮かべる。

　今と同じく小さなテーブルを挟み、彼の奇想を聞かされた。その後に続いた変転変異の為せる業か、全てが遥かな昔日と錯覚するほどである。

　──此奴こやつは、もう彼方に忘れたやもしれぬな。

　彼女にとっては生涯に残る情景であった。

　──コンクラーヴェなどと妙な因習が生んだ夢、二度は無かろうかと思ったが、

　トールから人払いを請われ、謁見の間は使わずに母とも会った件くだんのテラスへ招じている。

　──意外にあるものだな。

　窓向こうの居室に衛兵が立つとはいえ、廷吏や女官は雁首を揃えておらず互いの距離も近い。

　謁見の間とは異なり、客人のトールの方も寛いだ様子である。

　──まあ、常から寛いでいるような男ではあるが──とまれ、ここは実に良い。今後は、ここに招じれば良かろう。

　あまりに頻繁となれば妙な噂も流れるだろうが、それはそれで良いかもしれぬ──などとウルドは考えていた。

　外堀を埋める為の土砂ならば、いかほど有っても邪魔にはならない。

「──と思ってるんですが、どうでしょう？」

「うむ」

　ウルドは背筋を伸ばした後、眼下に広がる街並みへと面おもてをそむけた。

「聞いておらなんだ。許せ」

「アハハ」

　可笑しそうにトールが笑う。

「重用事──あ、否否。詮無き事に思いが至っておったのでな」

「いやぁ、ボクも良くあります。陛下でもあるんですねぇ」

　仲間が出来たと言わんばかりの口ぶりである。

「ええと、ボクが言いたかったのは、ロスチスラフ侯が気を悪くされた時は、陛下に仲を取りなして頂けないでしょうかという話しなんです」

　実際のところ、トールとロスチスラフに共通する知人は少ない。また、両者の立場を考えるなら、取りなせる存在そのものが稀有となる。

「良かろう。利に敏い男は、伯の企みは愚策と判じようしな」

「正確にはボクの企みじゃないんですけど──まあ愚策かもしれませんね」

　トール自身も、己が進もうとしている道が最善とは考えていなかった。

「とはいえ、一分の利はあるのであろう？」

「勿論です。但し、リスクに見合うか否かは視座によります」

「では、何故なにゆえに成す。其方そなたの義のみか？」

　正義感からなのかと問うたのである。

「とんでもない」

　トールは心底から首を振った。

「何が正義かなんてボクには分かりません。悪も分かりませんが──」

　正も邪も全て泡沫うたかたにしては豪奢な棚に祀られ数多の血肉を吸い取って来た。

「敢えて言うなら好悪こうおでしょうか。好きか嫌いか。ボクは嫌いなんですよ」

「ほう」

　義を声高に叫ぶ者など信じないウルドの口端が上がった。

「良き。嫌いならば致し方あるまい」

「はい」

「ただな、仲を取りなすより良い方法がある」

「え──何でしょうか？」

　トールが身を乗り出し興味を示した事に満足した様子のウルドは、テーブルに肘を乗せ左右の指先を絡めた。

「蛮族の主あるじを詰めるは、余が為そう」

「あ──」

　女帝に依頼できるとは考えていなかったせいか、トールには無かった発想なのである。

「確かに──いや、ホントにそうですね」

　ウルドが、その役回りを担ってくれるなら、トールとロスチスラフの仲に溝は出来ない。女帝自らが動いたとなれば、他の諸侯達とて助力はせぬまでも看過せざるを得ないだろう。

　トールにも最善手に思えた。

「では、決まりである。余に任せよ」

「有難う御座います」

　嬉しそうに頭を下げる相手に、ウルドの心持ちも湧いた。

「それより、明日の話なのだがな」

　明日は、女帝と諸侯にとって多忙な一日となる。

　幾つかの式典に続いて、諸侯会議、そして仮面舞踏会が開催されるのだ。

　ウルドとしては仮面舞踏会において、確かな目印を互いに決めておきたいと考えている。

　些か卑怯な手管であろうとも、己の願望成就を第一義に置く女であった。

「明日の舞踏会、余は紫紺のドレスに合わせ、同じく蝶を象った紫紺の仮面で参る。して──其方そなたは？」

　──か、仮面？

　トールは不思議そうな表情を浮かべた。

　女官長、ロベニカ、トールの伝言ゲームにおいて、仮面舞踏会の「仮面」部分が漏れていたのだ。

　──蝶の仮面を着けるだなんて……。前から思ってたんだけど、陛下って変わった人だなぁ。

　大いに変わった人物が下した評価である。

「ボクはいつも通り軍の礼装ですよ」

　舞踏会といえど軍属は軍の礼装で出席すると教えられていた。無論、一般的な舞踏会ならばなのだが──。

「ベルニクのか。ふむふむ、良いな。実に分かり易い」

「ええ、そうです。すぐに分かります」

　──ボクの顔って覚えにくいのかな？

　などとトールは少しばかり悲しい気持ちになった。

「とはいえ、念の為じゃ。仮面も教えよ」

　ウルドは意外な慎重派の一面を見せる。

「か、仮面ですか？　いや、ボクはこのままで行くつもりでしたけど……。やっぱり仮面を着けた方が良いですかね？」

「はて」

　どうであったかな、とウルドは記憶を辿る。

　仮面舞踏会は仮面を着けよ、と宮中百般に明文化されている訳ではない。

　──なるほど──仮面など、ふしだらと思うておるのかもしれんな。

　仮面舞踏会とは、元来は無礼講を目的とした宴である。

　身分の上下など気にせず踊り、交わりを愉しもうという趣旨なのだ。

　故に、乱倫の温床と見なす者もいた。

　──あの母君が好むのも当然か。

　母を早く追い払おうと考え適当に頷いた結果である。

「ホホホ、ククク。名案じゃ。名案である」

「はぁ」

　笑声を上げるウルドに対し、トールの返事は怪訝なものとなる。

「確かに仮面などいらぬわ。余も素で参る」

「ええ、その方が良いですよ」

　お綺麗なんですから、というのは余計な一言であろうと考え言わずにおいた。

「万事、解決である」

　仮面舞踏会では、素顔の二人が互いを見紛える事など有り得ない。

　後は、自分が右手を差し出せば良いだけである、とウルドは考えて満足した。

「解決です」

　二人ともが満ち足りた思いとなり、背もたれに身を預けて互いを見やる。

　程よい風も舞って、心地の良い昼下がりであった。

　不思議と苦にならない暫しの沈黙の後、トールが口を開く。

「そういえば、こんな感じの時がありましたね──ええと──」

　少し、ウルドの鼓動が早くなる。

「ほら、詩編大聖堂の夜ですよ」

「う、うむ」

　テーブルについていた肘を離し、両の手を腿ももの上に戻して握った。

　──忘れてなかった……。

「な、懐かしいか？」

　彼女にしては珍しく、少しばかり柔やわな表情となる。悲運の侍従長シモンなどが目撃したならば逆に不安が高じたかもしれない。

「はい、そうですね。ちょっと前のはずですけど、何だか懐かしいです」

　トールは何かを思い起こそうとするかのように天を見上げた。

「で、であろうな。実は余も──」

「そうだ！」

　突然の声音に、ウルドの肩が微かに揺れる。

「まだ、教えて貰ってませんよ」

　トールが腕を不思議な形に曲げて謎のポーズを──つまりはウルドの秘したるエクササイズを真似た。

「あれって、何だったんですか？」

　女帝ウルドは目を細め、ぷいと横を向いた。