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第20話 ある奴隷との約束。

「報道で知ってはいましたけどね、アドリア」

「申し訳ありません……」


 ルキウス・クィンクティの屋敷は異様な臭気を放つ百名近くの人間を迎え入れていた。


 使用人達は鼻をつまみながら彼らを風呂へ案内する準備を進めている。奴隷ではなく客人として遇するようルキウスから指示されていた為だ。


「他に方法が無かったのです」


 恩義のある養父に迷惑をかけたとアドリアは少なからず消沈していた。


 叛乱首謀者とされるクリスだけを保護する訳にもいかず、全ての奴隷を買い取る羽目となっている。


 ――ああ、やはり失敗だったのだわ……。


 アドリアは徐々に不安になり始めていた。


 ――笑っていませんもの――どうしましょう――また――に――。


「まあ、でも、考えてみれば、最初からこうすれば良かったのかもしれません」

「え――?」


 父のひと言にアドリアが顔を上げる。


「それで、肝心のクリス嬢はどちらに?」

「あちらに──」


 と、指差された事に気付いたクリスは、勇気を振り絞り胸を張る。

 怯えたさまを見せるのは、彼女の矜持が許さなかったのだろう。


 虜囚に貶められて以来、クリスティーナ・ノルドマンは変化し続けている。


 生来持っていた反骨心めいた気性は不良少女という形で発芽した。


 プロヴァンス女子修道院にて、その貴重な芽吹きは摘まれかけていたが、一連の不運な出来事が彼女を大きく開花させようとしている。


 頭を下げぬ彼女の様子を、フィリップとレオンは少し離れた位置から不安気な表情で見ていた。


 順応性の高い彼らは、この場は奴隷らしく振舞った方が安全なのではないかと考えている。


 他方で、フリッツも彼女を見詰めているが、顔の腫れが酷く表情は読み取れない。


「お目にかかれて光栄に存じます」


 幾つかの欠けた歯は滑稽に映るが、自分に近付いてきた男が屋敷の主なのだとクリスにも分かった。


「おお、実に見事な銀冠をお持ちなのですな――いや、なるほど」

「――?」


 ルキウスは興味深そうに、クリスの頭髪に目をやった。

 虜囚の中でピュアオビタルなのは、ノルドマン一家のみである。


 ピュアオビタルは奴隷としての付加価値が高く、これこそルキウスが破産寸前となった原因でもある。


「これで、トール伯との約束が守れて安堵しております」

「トール伯?」


 予想外の名前にクリスは驚いた。


「ベルニク領邦領主、トール・ベルニク伯から依頼されたのです。クリス嬢をお救いするようにと」

「はぁ?」


 クリスは、思わず頓狂な声を上げる。


 自分達が攫われた事を知っているはずも無ければ、仮に知ったとしてもわざわざ手を回して救い出すような関係性とは思えない。


「なんだって、アイツが――」


 クリスにしてみれば、アイツ呼ばわりもしたくなる相手である。


 プロヴァンス女子修道院から誘拐された時の道中は奴隷船よりも手酷い扱いを受けた。


 激しく振動するキャリーケースの中で打ち身だらけにされた恨みが蘇る。


 ――部下も乱暴な女ばかりで、本人は相当な悪党のはずだわ。

 ――なのに、ベルニクを頼るなんてお父様は……。


 その挙句が現在の状況なのだ。


「ともあれ、ご安心下さい」


 トールの名前を出せば喜ぶとばかり思っていたルキウスも、相手の反応に多少の違和感を感じていた。


 ――ボクのお嫁さんを紹介してくれる方が、教えてくれたんですよ。

 ――紹介――というと、ご結婚をされるのですか?

 ――え、ええ、いずれするつもりですが――ともかく、その女性を助けてくれませんか?


「トール伯のお妃候補には、何人たりとも触れる事は許されません」


 ◇


 至福。


 ――ああ、お風呂がこんなに素敵なものだったなんて……。


 クリスは、まさに至福のひと時を味わっていた。


 ――話の流れがまだ良く読めないけど、帰れるならもう何でもいいわ。


 トール・ベルニクが手を回す理由は分からないし、ルキウスと名乗る蛮族がそれを了承した点はさらに不可解だった。


 だが、九死に一生を得て、待望の湯浴みまでが実現したのである。


 ――お嫁さんにしたいって言うならなってあげるわよ。

 ――ただ、アタシの何が気に入ったのかしら?


 農家の屋敷で顔を合わせた程度で、まともに言葉を交わした記憶など無かった。


 どういう気まぐれなのかしら、と思いを巡らしていると──、


「失礼致します」


 躊躇いがちな声と共に、使用人の女が入って来た。


「え、な、何っ?」


 慌ててクリスは、さほど大きくはない胸元を腕で覆う。

 相手は女といえど、蛮族の考えてる事など分かったものではない。


「湯浴み中に申し訳ございません。その――どうしても――聞いて頂きたいお話しが――」


 辺りの様子を伺いつつ、女は湯船の傍まで寄って来た。


「私はサラと申します」


 金色の髪を持つ、若い女だ。


「ええと、私はクリス──」

「勿論、存じ上げております。奴隷船で叛乱を起こされた英雄ですから」


 そう言ってサラと名乗る女は恭しく頭を下げた。


「え、英雄?」


 いきなりの英雄扱いにクリスは狼狽えたが、相手の境遇を考えれば当然かもしれないと思い直す。


「あなたが攫われたのは──いつなの?」


 クリスが尋ねると、サラは首を振った。


「攫われたのは私の両親です」

「まあ、なんてこと……」

「私が生まれたのは船団国ですけれど、故郷の話を──ベルニクの話を私にしてくれました」


 クリスは胸が締め付けられるような思いを抱く。


 決して戻れぬ遥かな故郷の話を、奴隷となる事が決定付けられた娘に語る。


 これほどの悲劇が有るだろうか――。

 これほどの蛮行を女神が赦されるなど――。

 これほどの――。


「苦労――したのでしょうね」


 思わず口から出た陳腐な音節を恥じたが、他に伝えるべき言葉を持ち合わせていなかったのだ。


 皆を救うと言えない己の非力さを呪った。


「いいえ。ルキウス様の屋敷に在る奴隷は最も幸運な奴隷です。あの方自身も元は解放奴隷ですから――」


 だが、奴隷は奴隷である。


 寛大な主人が死ねば、その先の運命は女神にすら分からない。


「これから、クリス様はお戻りになると聞いております」

「ええ、そうなの。──ごめんなさい」


 自分達だけが助かる事を、皆を助けると約せぬ事を詫びたのである。


「謝る事などありません。帝国には、もう一人の英雄がいらっしゃいます」


 そう語るサラの瞳に希望が宿る。


「残虐非道で知られるユピテルを打ち破ったトール・ベルニク伯爵。船団国の奴隷でその名を知らぬ者はおりません」


 ――アイツの名は、蛮族の地でも知られていたのね……。

 ――ま、戦争に勝ったんだし当たり前か。


「どうか、お願いします」


 瞳を閉じたサラは、Λの印を結ぶが、それは神官が結んでいた印とは異なり帝国風である。


 両親に教えられたのだろうとクリスは思った。


「あなた様の夫となる方にお伝え下さい」

「え、あの――夫?」


 ええ、とサラが微笑み頷く。


「英雄の到来をお待ちしている――と」

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