女帝強奪より、少し時を遡る。
途中、イリアム宮の謁見台で降ろされたドミトリと配下三名は、宮の地下に在る獄に向かっていた。
陛下の元へ早く行かないと刎ねられます、などと文句を言いながら、
叛乱軍の侵入に備え、ほとんどの衛兵は入り口付近を固めており、宮内に在る兵は少ない。
途中、らせん状の階段で出会った衛兵達は、シモンが何かを渡し耳打ちをすると、用事が出来るらしく上を向いて立ち去った。
――どうにも、お寒い状況だな。
ドミトリは、帝国の腐敗を垣間見た気がして不快な気分になっている。同時に、オソロセアにはロスチスラフが健在である事を女神に感謝した。
「ここです」
地下の最も奥に在る獄であった。
格子の向こう側では、小柄な男が床に伏せっている。
「――お待ちを」
そう言ってシモンが壁面のパネルを操作すると、金属音を響かせ格子の一部が開いた。
「何と呼べば良いのか、分からんのだが――ともあれ、起きられよ」
上司ではないが、目上にあたる人物は、この男を「道化さん」と呼んでいた。
――道化さんの救出は、ドミトリさんにお願いしますね。
――獄までは、シモンさんが案内してくれるはずです。
自身の命を狙った男を救う理由など、ドミトリには分からない。
「ベルニク領邦領主、トール・ベルニク子爵閣下が、貴方をお救いしたいとのことだ」
その名に反応したのだろうか。
伏せっていた男が、むくりと身を起こす。
「へぇ――ししゃくかっか」
間抜けな顔をした年若い男で、黒髪であった。
「誰だぁ、そりゃぁ?」
相手を何と呼べばよいかは分からないが、目的の人物でない事だけは分かった。
「シモン――獄を閉じ、陛下の元へ駆けよ」
◇
――トール・ベルニク子爵閣下より、各報道機関宛に打電がありました。
照射モニタに映る女は、些か
――我、賊より陛下をお救いせり。
――安じて
「
映像が切り替わると、イリアム宮からティルトローター機が飛び立っていた。
ハッチから垂れる
「いわんや、痛快である」
女は、天秤衆の装束に身を包み、ハルバードを構えている。
ブリジット・メルセンヌであった。
「なれど、貴様は哀れなり」
そう言うと、アレクサンデルは、真実、少しばかり悲し気な表情を浮かべた。
コンクラーヴェには勝ったが、正式な即位には、聖都で「忠実なる僕の儀」を執り行う必要がある。
だが、帝都における動乱に巻き込まれ、今もってハイエリアの私邸に在った。
無論、暴徒や叛乱軍とて、聖職者の住まう屋敷は襲わない。天秤衆が訪れるまでは、静謐が保たれていたのである。
「訪ねると言うので許してやったが、女神も畏れぬ狼藉――哀れなものよ」
レオ・セントロマ
アレクサンデルの
加えて、治安当局と軍は、暴徒や叛乱軍の始末に追われている。
「――哀れ――とは?」
ブリジットは問答などするつもりが無かった。
自身の聖務は、儀が終わり正式な教皇として即位する前に、腐った
それこそが、天秤衆総代より下った神意なのだ。
ところが、腐った
忠実なる女神の僕として、光の中を歩む天秤衆ブリジット・メルセンヌを哀れんだのである。
このままアフターワールドに渡らせては、心の隅に淀みが残ると考えブリジットは問い返したのだ。
「言うたままの意味よ。我は教皇として、プロヴァンスなど
「
ブリジットは笑みを浮かべたまま、敢えて聖下とは呼ばず応えた。
「ですが、プロヴァンスと天秤衆への雑言――やはり私の聖務が必要と、改めて認識させて頂きました」
「肉人形の認識など、全てが錯覚、錯誤、誤謬」
「に、にく――」
ハルバードを握る手に、力が入る。
「忌まわしい術にて、
「やはり、
異端、異端、異端、とアレクサンデルは
「詩編第三章二十三句を、尻から
ラムダ聖教会には、誰が記したとも知れぬ聖典がある。
聖典の一部を成す詩編には、女神を称える詩が
「な、なぜ、それを――?」
狼狽える
悪漢アレクサンデルが口にしたのは、天秤衆とプロヴァンスに伝わる秘儀中の秘儀であった。
「嫌なら、我が
執務机の引き出しを開ける。
「照射より、書物の方が良かろう」
そう言って、分厚く黒い装丁の書籍を取り出した。
舌で指を湿らせつつ頁を繰る姿は、ブリジットの忌まわしい深層記憶を刺激する。
「やめよッ!!」
思わず叫んだブリジットは、微笑みの仮面が外れ鬼相となった。
聖典を取り上げようと腕を伸ばす。
「――お前は聴かねばならぬ」
「イヤ!!」
常の余裕を失い、口調と声音を取り繕う事も出来ない。
「聴けいッ」
アレクサンデルが
そこでようやく思い起こしたのだ。
自身の手に握られている、唯一無二の真実を――。
余計な問答などせず、出会い頭に
不道徳な異端者とはいえ、次期教皇という虚飾に遠慮したのが間違いだった、とブリジットは歯噛みをした。
「異端――」
ハルバートを水平に引き、足腰の回転を効かせ、アレクサンデルの
「――死すべしッ!!」
寸分
が、執務机の下方から
アレクサンデルの頭上に残る僅かな毛髪を剃り空を切った。
勢いそのまま小さな影が、執務机の上に立つ。
「ジジイ、足くせーぞ。でもって、テメェは殺す」
テルミナ・ニクシーは、愛用のバヨネットの刃先をブリジットに向けた。
「小娘。易々と殺すでない」
落ち着き払った様子で、アレクサンデルがテルミナを
「この女は我が貰う。なかなか――良い」
いや、
他方のブリジットは状況の把握に少しばかりの時間を要した。
数舜の後、執務机の上に立つ幼女が、自らの想い人であると気付く。
「て、テルミナちゃん?」
些か状況にそぐわぬ口ぶりとはなった。
長年の呼称は、そうそうに変えられないという事かもしれない。
「天秤衆が来ると聞いて、何も準備をせぬと思ったか?」
アレクサンデルも、その巨体を椅子から持ち上げた。
窓から差し込む光が遮られ、ブリジットに影が落ちる。
「愛し子の屍を超えて我を討つか。それとも逆さ聖句を聴くか。選べ」
その瞬間、ブリジットは、苺の下に隠された聖レオの伝言に従うべきであったと悟る。
――私が敗れし時、一切を捨て置き、グリフィス領邦へ
「安心せよ、女」
悪漢は嗤う。
「罪ごと喰ろうてやるわ」