大聖堂や会議室で目にした女神像と、何ら
異なる点と言えば、その裸体が生きているかのように艶めかしい点だろうか。
「そんな――」
「嘘だろう――」
呆然とする二人を置き、トールは女神の前へと進み出た。
指先で透明なパネルを何度か叩き、首をひねっている。
次に、飛び跳ね、そして手を打ち始めた。
ついには――、
「やあやあやあ、朝ですよおお。女神さまッ!」
――などと大声で叫び始めている。
敬虔な女神ラムダの信徒が見れば、許しがたい行為であったかもしれない。
幸いこの場に居合わせたのは、忠誠が信仰を上回る女と、贖罪意識が異様に高まっている男だけだ。
「か、閣下?」
気が触れたかのような動きを繰り返すトールに、ジャンヌが声を掛ける。
ケヴィンはと言えば、跪いて祈りを捧げていた。
――閣下と領邦への裏切りを御許し下さい。女神ラムダよ……。
「駄目か――。う~ん。困ったぞ」
勝手な乱痴気騒ぎは止めたトールだが、今度はブツブツと呟き考え込み始める。
――このままだと、最悪の選択が必要になってしまう。
――
と、その時、彼の脳裏に瞬くモノがあった。
「あ、そっか」
何を閃いたのか、笑顔でジャンヌ達を振り返る。
「驚かないで下さいね」
十分に驚いている状況だったのだが、忠実な二人は健気に頷いた。
「ボクもすっかり忘れてましたよ。ええとコホン」
軽く咳払いをして、女神に向き直り胸を張った。
「こんにちは!いや、お早うございます――かな?」
ジャンヌは怪訝な表情を浮かべたままだ。
祈りを捧げていたケヴィンは、オヤという様子でトールを見た。
「初めまして!」
久方ぶりのためか、上手く話せている自信は無い。
「ボクは、秋川トオルです!!」
その声が響いた時――。
ジャンヌやケヴィンには決して理解できぬ音節が響いた時――。
女神は、その瞳を開いた。
「――か、閣下――危な――」
「大丈夫」
前に出ようとしたジャンヌを、トールは腕で制した。
「――く、悔い改めます。女神よ。お、お御許しを――ご慈悲を――」
いよいよケヴィンの祈りは、心の中に止まらなくなったようだ。
だが、きっと彼の祈りは女神に届かないだろう。
視界にすら入っていないのではなかろうか。
なぜなら、女神の瞳はトールだけを見詰めていたのだ。
女神の声が、広い空間に響く。
「だ、誰?」
◇
巨大な体躯とは釣り合わぬ、それは少女の声音であった。
怯えと――さらには諦めが混じっている。
「ですから、秋川トオルです!」
問い掛けたはずの女神は言葉を失い瞳を大きく見開いた。
――誰?
それは、女神が何度も発してきた問いなのであろう。
だが、誰も答えなかった。そもそも、答えられる者などいなかったのだ。
いつしか諦め、口を閉ざすようになったのかもしれない。
「おっと、話しを続ける前に――」
呆然としているジャンヌとケヴィンへ、先に伝えておく必要があった。
「お二人には分からない言葉で話しています」
「――え?」
オビタルであれ、地表人類であれ、共通の言語が使われる。
例え、グノーシス異端船団国であったとしてもだ。
あらゆる記録は共通の言語で残されており、異なる言語という概念すら失われつつある。
それは、合理性を追求した先史文明の遺した遺産――あるいは弊害であったのかもしれない。
「閣下はいったい――し、失礼」
ジャンヌは何かを問いかけようとしたが、彼女にEPR通信が入ったようだ。
ニューロデバイスに触れ、厳しい表情を浮かべた。
一方で女神にとっては、ジャンヌの声など、どうでも良い
「わ、分かるの?」
喜色混じりの声で、トールに語り掛ける。
「はい」
観戦武官には、この言葉は全く理解出来なかった。
だれ――という音のみが、度々聞こえたという記録が残っている。
「日本人ですからね。ちょっと、そうは見えないでしょうけど」
――銀髪の日本人なんていないしね。
「日本人?ええと何のこ――」
女神が言葉を継ごうとした時、移乗攻撃への警告を発していたアラートが変化する。
――μフロント異常検知――μフロント異常検知――。
――相転移網のトラフィック上昇――通信レベル低下――担当技官は――。
「こ、この音――あぅ。怒られる」
「待って下さい」
瞳を閉じようとした女神を、慌ててトールが止める。
「もう少しです。多分」
トールは唇に人差し指を当て、ジャンヌを振り返った。
「閣下」
ちょうどEPR通信を終えたようだ。
「ブリッジの制圧が完了した模様です」
「良かった。とりあえず艦内の騒音を――」
トールが言い終える前に、艦内に静寂が落ちる。
揚陸してからアラートを聞き続けていたせいか、異様な静けさにも感じられた。
「あれ?静かになった」
「怖い人たちを黙らせたんですよ」
壁に繋がれた女神――これでは奴隷ではないか。
傍目には分からなかっただろうが、トールはかなり本気で怒っている。
「――秋川トオル――さん?」
「はい、そうです。えっと、あなたの名前も教えてくれませんか?」
「わ、私は――みゆう」
そう聞いて、トールは怪訝そうな表情を浮かべた。
彼の想定しない応えだったのかもしれない。
「うん――。でもトオルは何をしに来たの?」
「ボクは――」
大聖堂や会議室の女神像を見るたびに、思っていた事を伝えるのだ。
「――あなたを助けに来たつもりです」
勝つためでもあった。
だが、観戦武官の記録を読んだ時から考えていた事でもある。
女神なのか否か、その存在の正体は不明だが、救うべき対象なのではないか、と。
「ただ、軍事用語では
◇
グノーシス異端船団国は帝国とは異なりEPR通信を持たない。
その事実は、艦隊運用において、本来なら帝国側との埋め難い戦力差を生んだはずだ。
宇宙空間で一糸乱れぬ艦隊運用を図り帝国と戦うなど、光速通信のみでは不可能だろう。
だが、彼らはそれを成し遂げていた。
となれば、他の通信手段があると考えるのが妥当である。
その答えを、トールは屋敷の地下で見つけたのだ。
μフロントで瞳を閉じた女神が、EPR通信に代わる手段を提供している。
つまるところ、女神とは生体通信ハブなのだ。
眼球と舌を抜かれていないだけでも、グノーシス異端船団国は良心的だったのかもしれない。
だだ、これが、EPR通信やポータルのような、量子テクノロジーの産物であるかは分からない。人型である必要性も不明であった。
――そこは、戻って調べるしかないよね。
――助ける方法だって知りたいし。
「みゆうさん」
「うん」
「ボクの家に来てほしいんです。まあ、当面は宇宙港になりますけど――」
二乗三乗の法則で、女神の
壁から解放したとしても、浮力の存在する水中か、局所的に慣性制御を調整した空間でしか暮らせない可能性がある。
――屋敷にプールなんてあったかな?
「う、うん。うん。行きたい。お話ししたい。行きたい、絶対」
誰にも想像できないほどの飢えが、女神にはあったのだろう。
己の言葉に耳を傾ける存在を、己の言葉を解する存在を、何より己の問いに応える存在を欲し続けていたのだから――。
「ボクが今から言う事を、みんなに伝えるってできますか?」
「音って事でしょ?」
「オビタル語なので、まあ、そうなりますね」
「大丈夫」
女神が瞳を閉じた。
「全艦、砲撃停止」
「――うん――伝えた」
――旗艦は勿論だけど、戦闘艇一隻はグレンさんに譲ってもらおう。
女神だけでなく、受信側をも調べる必要があると考えたからだ。
「ありがとうございます」
旗艦については、ブリッジ制圧部隊が既に砲撃を停止させている。
ルチアノグループへの手土産を壊さぬため、ジャンヌを振り返った。
「こちらも砲撃停止を。商船は戦域から離脱させましょう」
呼びかけるが、不思議そうな表情を浮かべたままだ。
――言葉の切り替えは、馴れるまで意識してかないとなぁ。
「ジャンヌ少佐」
「――は、はい」
非常に珍しい事だが、この時ジャンヌ・バルバストルは動揺していた。
意味不明な言葉を発し「女神に見える何か」と自然な会話をする領主に――。
敬虔な信徒にとって、信仰を揺るがしかねない光景であった。
事実、ベネディクトゥス星系における戦いの記録は抹消されているのだ。
屋敷の地下にあった書籍を除いては――。
「こちらの砲撃も止めて下さい。残った商船も戦域から離脱させましょう」
トールの落ち着いた声を聞きながら、ジャンヌは考えた。
――全く意味が分かりませんけど、確かな事は一つだけですわ。
信仰は揺らいでも、トール・ベルニクへの忠誠は揺るがない。
――閣下についてゆきます。
それどころか、彼女の中で新たに都合の良い仮説が形成されつつある。
――仮に本当のラムダ様ならば、ラムダ様と会話をする閣下は……。
彼女は自身が思い至った結論に、文字通り身体を震わせた。
――乱れた領邦、い、いえ――いっそ帝国を律する為、女神の使わされた
この結論は、彼女の忠誠と信仰のバランスにとっても好都合なのであろう。
内的矛盾を抱える事なく、これまで通りの人生を歩んでいける。
そんな妖しいジャンヌの様子に、トールは少しばかり怯えていた。
「じゃ、ジャンヌ少佐、あのうボクが言った事――」
怯えるトールに構わず、今こそ正式な忠誠の誓いをとジャンヌが考えた時の事だ。
「――緊急?」
この場にいた、トール、ジャンヌ、ケヴィンに緊急EPR通信が入った。
つまりは、生死に関わる事態――という事になる。
「タイタンポータルより、新たな敵影確認ッ!繰り返す、タイタンポータルより――」