トールはすっきりと目覚めた。
昨日までに全ての不安が解消したからである。
タイタンポータルの存在確認、弾除けの商船、強襲突入艦、優秀な艦長、そして――、
「あ、ケヴィン准将。おはようございます!」
昨日付けで、中央管区艦隊副司令長官に任命された男は、目の下に物凄いクマを作っていた。
「閣下――おはようございます」
結局、一睡もできなかったのである。
何度かオリヴァー・ボルツと連絡を取ろうとしたのだが、一向にEPR通信が成立しなかったのだ。
――すでに切り捨てられたのだろうか。
――いや、例の幼い愛人相手に忙しいのかもしれない。クソッ。
どちらにしても、頼りにならない同志に思えた。
こうして、憂鬱どころか、明確な不安と恐怖を抱えたまま朝を迎えている。
それに引き換え、目の前にいるアホ領主の清々しい様子はどうだろうか――。
何だって、これほど機嫌が良いのだろう。
全滅すると知らないとはいえ、さすがにアホでも劣勢である事は分かるはずだ。
――まさかとは思うが、俺の見込み違いだったのか?
――アホ領主などではなく、凡人には理解できぬ――英雄――。
そこまで考えたところで、ケヴィンは頭を振って思考を中断する。
例によって、面倒になったのかもしれない。
――ともかく俺がすべきことはハッキリしている。
――救命艇を探す、いや、待てよ――それよりもっと確実な方法があるな。
出撃準備に慌ただしい周囲の様子を見ながら、ケヴィンは生き残りの術に思いを巡らせていた。
◇
ロベニカは昨夜時点で地球軌道に戻っても良かった。
これから出撃するだけというトールに、首席秘書官の役割など無いからだ。
だが、戻らなかった。
正確性を期すならば、戻りたくなかったのだろう。
とはいえ、所用が無ければ月面基地にはいられない。
今回の軍事行動は機密にしていないため、前日から多数のメディアが現地入りをしている。
艦隊の陣容などは撮影しない事を条件に許可しているのだ。
トール自身、己の愚かさを喧伝するためにも、メディア取材を歓迎していた。
――明日の朝からインタビューですか?
ソフィア率いる取材クルーの周辺で、わざと目立つようロベニカ自身が何往復か歩いていた事は黙っておいた。
――ええ、エクソダスMのソフィアに煩く言われまして……。
ロベニカを見付けたソフィアは、獲物を見付けた狩人のように近付いてきたのだ。
ただ、エクソダスMの論調が変わり始めている事もあり、以前ほどの警戒心は抱いていない。
――え、ムッチーノさん?いいですよ。やりましょう!
ソフィアと知り、トールがやけに嬉しそうにしたのには苛立ちを覚えたが――。
ともあれ、取材があるということで、月面基地での滞在が一日延びたわけである。
「閣下。ご出立前に申し訳御座いません」
翌日早朝、ロベニカに案内され、ソフィア・ムッチーノが現れた。
今回はカメラマンも同行させているようだ。
場所は、月面基地の応接室である。
出撃直前らしく、応接室にも基地内の喧騒が伝わって来ていた。
「彼女とちょうど――」
「コホンコホン。し、失礼。ささ、時間もありませんから手早くお願いしますッ!」
ロベニカが慌てた様子で割り込んだ。
何事かに勘付いたのか、ソフィアは意味ありげな視線をロベニカに送る。
「どうぞどうぞ。まずは座りましょうか」
トールは対面のソファを薦めた。
簡単に謝辞を述べると、ソフィアは遠慮なく腰かけ、その長い脚を組んだ。
――やっぱり、ムチムチしてるなぁ――ゴクリ。
取材事態は、通り一辺倒な内容で終わった。
威勢の良い発言というものを、トール・ベルニクは好まなかったためだろう。
「それはそうと、閣下」
「は、はいッ」
ソフィアの組んだ
――バレちゃったのかな?
「バスカヴィ宇宙港で、閣下を襲った男の件ですが――」
中央管区憲兵局にて拘留中であった。
反政府系組織フレタニティの一員である事は判明している。
本人は、組織のリーダーだと主張しているそうだが、広域捜査局に照会したところ別の人物がリーダーであった。
「――三年ほど前に取材で会った男と特徴が似ているのです」
「え?」
「あの時は動揺して気付かなかったのですが――」
元軍人で、ニューロデバイスを自ら切除している。
話す内容も支離滅裂で、すぐに激高するタイプだったそうだ。
「実は、ボクは詳細を把握していないので、ちょっと戻ったら時間を頂けますか?」
「ええ――」
ロベニカが何かを言おうと口を開くが、ソフィアが先手を打った。
「――喜んで。閣下とのお時間でしたら――いかほどでも」
嫣然と言いながら、ゆっくりと脚を再度組み替える。
――ふわぁ――。
EPRネットワークに流れたトールの映像は、実に真剣な眼差しであった。
何を見詰めていたのかは、当事者とソフィア・ムッチーノのみが知る。
◇
出撃時刻が迫る。
月面基地からの艦隊出撃において、一般人による見送りなどは想定されていない。
全てが事務的に、なおかつ合理的に進んでいく。
中央管区艦隊及び、特別支援船団――ようは商船であるが、全艦出撃体勢を整えていた。
艦隊司令長官の旗艦への搭乗を待つのみである。
その艦隊司令長官は、些か慌てていた。
ソフィアの取材が終わり、トイレに行ったのだが帰り道が分からなくなったのだ。
「わわ、不味いよ。出撃時刻に遅れちゃう」
この時、彼がもう少し落ち着いていたならば、ケヴィン・カウフマンの人生は変わったのかもしれない。
ロベニカにEPR通信で連絡を取れば済む話なのだ。
だが、彼は焦っていた。
EPR通信の存在など彼方に忘れていたのだ。
迷えば迷うほどに、見た事も無い通路に
出撃間際で、基地内は閑散としており、道を尋ねる相手もいなかった。
ところが、である。
様々な意味合いで、女神ラムダはトールという男を愛したのだろう。
「あ、助かったぞ!」
通路の先で見知った顔を見付けたのだ。
トールは嬉しくなって駆け出した。
「ケヴィン准将おおおおッ!!」
「ひいっ」
キャリーケースを引く、ケヴィン・カウフマン准将であった。
彼は終生この一件で肩身の狭い思いをする事になる。
「まさか、こんなところで会えるとは思いませんでした」
「――閣下――まさか、わ、私を疑って――」
「何の事ですか?ともかくボクは道に迷って困ってたんです!」
真に迫ったトールの表情を見て、ケヴィンは多少の落ち着きを取り戻した。
本当に迷っただけなのかもしれないと考えたのだ。
「た、大変ですな」
「はい。ただケヴィン准将に会えてラッキーでした。今回ばかりは女神ラムダに感謝ですよ」
「――それは――どうでしょうな」
ケヴィンとしては感謝どころか呪いたい気持ちであったろう。
救命艇などより、より確実な手段を敢行中だったのだが――。
「じゃあ、行きましょう。ホワイトローズへ」
「――はい」
こうなっては従うほか無かった。
◇
「トール様ッ!」
発着場に出るためのゲート前にロベニカが待っていた。
なぜか、ケヴィン准将を連れているが、司令官同士で打ち合わせがあったのだと解釈する。
「すみません。遅くなりました」
「いえ、少し心配になっただけですから」
これから戦場に行く相手に、多少の遅刻でとやかく言うのは間違っている。
「ええ、ともかく行ってきます」
「ご武運を」
色々と伝えたい思いはあったが、この一ヵ月の付き合いでロベニカは分かっている。
トールはとかく大仰な事を嫌うのだ。
「ありがとうございます」
そう言って、トールはゲートを出て行く。
キャリーケースを引き陰鬱な表情のケヴィン准将がそれに続いた。
やたらと広い発着場に、巨大な艦船が並んでいる。
数字の上では少なく感じるが、人の目から見れば圧倒される光景だった。
ゲートから真っすぐ伸びた先に、ホワイトローズの乗艦タラップがある。
タラップの上ではトールを出迎えるため、ジャンヌ・バルバストル少佐が優雅な敬礼をしていた。
そこに至る道など無い。
平らで巨大な面が拡がっているだけだ。
だが――、
ロベニカ・カールセンには一本の道が見えている。
その道を歩くトールの背中は、それら巨大な人工物と比べればとても儚く、そして小さい。
遠ざかって行く。ロベニカには行けぬ場所へと――。
「あ――」
彼女は短い悲鳴を上げる。
何か障害物でもあったのか、トールが転んでしまったのだ。
ケヴィン准将の手を借りて起き上がっている。
頭を下げて礼を言っているのも分かった。
「もう!」
胸が締め付けられそうな思いと、
ゲート付近にいた基地職員が、スーツ姿で現れたロベニカを戻そうと近付いてくる。
知った事か、とロベニカは思った。
思いきり息を吸う。
胸いっぱいに息を吸った。
「とーーーーるさまあああああッ!」
小さな背中が振り返る。
ロベニカは、こぶしを握った
再び息を吸い――、
「がんばれえええええええッッ!!!」
彼は制帽を整え、少し照れくさそうに敬礼をした。
◇
帝国歴2800年 12月09日 16:15(帝国標準時)――。
ベルニク領邦領主トール・ベルニク子爵率いる中央管区艦隊が月面基地を発った。
陣容は以下の通りである。
戦艦 2
駆逐艦 10
戦闘艇 1000
強襲突入艦 1(▽)
その他艦艇 100
特別支援船団 5000
「全艦――」
腕を振る必要など無いのだが、トールは振ってみた。
本人の為に申し添えておくならば、彼がこの所作を行うのはこの一度限りである。
「――出撃ッ!!」
予定より15分遅れの出撃となった。