月面基地司令官ケヴィン・カウフマン准将の憂鬱な一日が始まった。
いや、今日に限った事ではなく、彼は毎日が憂鬱なのだ。
いつからだろうか、とケヴィンは自問自答する。
帝国の権威が衰えを見せ、各領邦が野心を隠さなくなってからだろうか。
先代領主が召され、後を継いだ愚かな領主に落胆した時からだろうか。
――違う。
もっとプライベートな事が原因かもしれない。
幼馴染でもある妻の気持ちが離れてからか?
二人の娘が反抗期を迎えてからか?
――いいや、違う。
憂鬱さを増す要因ではあるが、根本原因では無いのだ。
――分かっているはずだ。俺は分かっている。
それを認めるのが怖い。
面倒な事を避けて来たツケなのかもしれない。
ケヴィンは流されやすい男だ。
また、込み入った事を考えるのを面倒だと感じる。
だからこそ、シンプルな答えに価値を見出し、それが真実なのだと錯覚してしまう。
オリヴァー・ボルツは、領邦の問題を解決するシンプルなプランを示した。
全てが疲弊したこの領邦が、動乱期を迎えるであろう帝国で生き残る術を――。
無能で怠惰な跡継ぎ領主では不可能だ。
そうオリヴァーは唱え、ケヴィンや他の多くの人間が賛同した。
面倒臭がり屋の彼から見ても、トール・ベルニクは輪をかけて駄目な男に見えたのだ。
だが――、
本当にその見立ては正しかったのか?
「どうしました、ケヴィン准将?」
「い、いえ――何でもありません」
勝手に物思い耽っている場合では無い事を思い起こし、軽く咳払いをした。
「お疲れですよね。着艦作業で、基地の皆さんにご迷惑をお掛けしているようで――」
実際、基地スタッフは昨夜から今に至るまで不眠不休の状態にある。
地球軌道から千隻、火星軌道からは四千隻の商船が押し寄せているのだ。
月面基地の収容面積自体は十分にあった。
太陽系が、帝国の一辺境に落ちぶれてなどいなかった時代の名残りである。
とはいえ、基地スタッフ自体は、抱えている艦数に応じた人数になっていた。
「しかし、商船だとしても壮観ですな」
基地司令室から見える光景に、トールがプライベートラウンジで抱いたのと同じ感慨を抱く。
「ルチアノ様様です。足を向けて寝られませんね」
後半部分の言い回しは、ケヴィンには理解できなかった。
周囲を困惑させる修辞を、時折使うのがトール・ベルニクである。
そうやって相手の反応を楽しんでいるのだ、と評する者もいた。
「よもや、これだけの商船を集めるとは――」
軍事機密としなかったため、この話しは既に報道でも流れており、オリヴァー・ボルツなどは大いに楽しんでいた。
EPR通信で交わした昨夜の会話を思い出す。
――やはり底抜けのアホだったな。
実際、その通りなのであった。
いくら艦数が足りないとはいえ、商船を連れて行ったところで数合わせにもならない。
せいぜいが弾避けか、デブリ障壁でも作って相手の航行を邪魔する程度であろう。
――それよりケヴィン。火星軌道に来い。
――いえ、これからその商船の着艦作業がありまして……。
――明後日は前祝いだ。
だが、オリヴァーの誘いを断り、ケヴィンは月面基地に留まった。
底抜けのアホが引き連れてきた商船を、月面基地に受け入れるために――。
「トール様、そろそろ――」
ロベニカが時間を確認しつつ、トールに声を掛ける。
「ああっと、ジャンヌ少佐を待たせては大変です」
――なんと言っても、宇宙海賊だからなぁ。
「では、ケヴィン准将、ボクは失礼します」
「は、はい……」
そう言って出て行くトールと目を合わせる事が出来ない自分がいた。
今、この瞬間になって、ようやく憂鬱さの原因を認められたのだ。
――恥。
ケヴィン・カウフマンは恥じていた。
来るべき帝国の動乱を生き延びるには、強力な後ろ盾に基づく安定した統治が必要である。
その理屈は、とても美しい化粧箱に入っていた。
私腹を肥やしながら、オソロセアに郷土を売り渡そうとしているに過ぎないのに――。
だが、どうだ。
天下のアホ領主と言われた男、トール・ベルニク。
弾避けにしかならぬとはいえ、多数の商船を集めて来た。
見当違いの場所とはいえ、自ら寡兵を連れて乗り込もうとしている。
しかも強襲突入艦に乗り込むのだ。
後の世において、愚かなりと評されはしよう。
だが、一方で愛されもするだろう。
少なくとも、恥にまみれたケヴィン・カウフマンよりは、愛されるべき男なのだ。
◇
強襲突入艦ホワイトローズは、白銀の塗装が施されている。
明日の出撃を控え整備は終わっているはずだが、後尾部分に作業車両が張り付いていた。
衝角から船尾まで全長350メートル、乗員数300名、うち100名は強襲揚陸部隊である。
艦尾が格納庫となっているため、フラスコのような形状にも見えた。
艦載砲は最低限の装備となっており、あくまで敵艦に接舷し揚陸する事に特化しているのだ。
「強襲突入艦が旗艦になるなど、戦史に残る暴挙かもしれませんわね」
隣に立つジャンヌが、含み笑いを漏らしながら呟く。
「確かに暴挙です」
トールは中央管区司令長官であり、ベルニク軍の階級としても最高位である。
艦隊司令長官となるのが自然な流れであり、艦隊司令長官が乗船する艦は即ち旗艦である。
「ボクみたいな素人が艦隊司令長官ですしね」
他人事みたいに言うんじゃないッ、とロベニカとしてはツッコミたくもあったが止めておいた。
今さら言っても仕方がないし、もはやこの不思議な男に賭けるほかないのだ。
グノーシス異端船団国が迫っており、領邦には裏切り者がいる。
なおかつ、領邦が持つ軍事力も貧弱なのだから――。
「結果は女神ラムダのみが知るところでしょうが、私共が全霊でサポート致しますわ」
トールと共に宇宙の藻屑となる可能性が高いジャンヌであったが、平素と変わらぬ令嬢ぶりだった。
「ホントに助かります。よろしくご指導ください」
妙に素直なところが彼の美徳である。
「ただ、やっぱり不安なので――」
「あらまあ閣下ッ!――ご覧になって――ほら」
思わずトールの話を遮り、ジャンヌがはしゃぐような声を上げた。
飛び跳ねるようにして、ホワイトローズの艦尾を指差している。
先ほどから艦尾に張り付いていた作業車両が去ると、隠れていた部分がその姿を現した。
「あれは――」
旗艦の場合は、
ただ、今回は少しばかりアレンジされているようだ。
「――ハンマー?」
「ええ」
ジャンヌが嬉しそうに頷く。
「トールハンマーですわ」
――北欧神話か。まったく、ボクの夢らしいなぁ。
◇
「は――なんですと?」
ドックに行っていたはずのトールが、またも基地司令官室に戻って来たのだ。
おまけに無茶な要求を携えて――。
「艦隊副司令に?」
「そうなんですよ。月面基地司令に就任される前は、木星方面管区の討伐艦隊にいたそうじゃないですか」
討伐艦隊とは通称で、正式には木星方面管区艦隊である。
宇宙海賊への対応を主任務とするため、討伐艦隊と呼ばれる事が多い。
「じゅ、十年前の事ですし、何より月面基地を空けるわけには――」
「大丈夫ですよ。ここまで敵は来ませんし。来たら終わりなんですから」
平和な顏で物騒な事を言い出した。
トールとしても必死なのだ。
自身の夢と考えているとはいえ、心に湧きたつ不安は本物としか思えない。
素人艦隊司令には、玄人艦隊副司令が必要だろう、と考えたのである。
「――そうかもしれませんが――」
ケヴィンは、困惑した。
トール率いる艦隊への参加は、死亡チケットなのである。
とはいえ、指揮命令系統上断る事も出来ない。
いっそ全て白状するかと考えたほどであった。
「――わ、分かりました」
だが、白状すれば憲兵隊に拘束されるのは間違いない。
トカゲの尻尾切りの要領で、オリヴァーは自分を切り捨てるだろう。
「わぁ、良かった。安心しましたよ、ケヴィン准将!」
トールの嬉しそうな声が、耳の右から左へと抜けていく。
――ともかく隙を見て逃げるしかない。
――ホワイトローズだか何だか知らんが、救命艇の位置だけは調べておこう。
ケヴィンは硬く決意し――、
いつの間にか、憂鬱どころでは無くなっている事に気付く。