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第22話 トールの失踪。

 今日は、マリが執務室付きの当番だった。

 そのせいかどうかは分からないが、いつもより早く目覚めている。


 当番日の自分は、念入りに身だしなみを整えるようになった。

 本人からすると大きすぎるように思われる胸を、姿見で何度か確認する。


 エロスレーダーに反応があるのだから、少なくとも醜悪ではないのだろう。

 彼にとっては、だが――。


「よし」


 両手で頬を抑え、口角を少し上げる。


 この表情を、いつか誰かに見せられる日は来るのだろうか?


 ◇


 トール付きとなったジャンヌは、屋敷の客室を割り当てられている。


 あまり時間は残されていないが、可能な限りトールの剣術を磨いておきたかった。

 彼に危害が及ぶような事態にはしないつもりではあったが、戦場では何があるかなど分からない。


 乗船を止めた方が良いと揺れる時もある。


 とはいえ、ジャンヌ自身が終生の忠誠を誓った相手なのだ。

 あるじが決めた事には、何であれ従う必要がある。


「そういえば――」


 先日の誓いが、途中で遮られた事を思い出した。


「――改めて、誓わせて頂く必要がありますわね」


 ◇


「ぎゃああ、やばいやばいやばい」


 ベッドから跳ね起きたロベニカは、ナイトウエアを脱ぎ捨てて下着姿になった。

 シャワーは諦め、髪を整えつつ、部屋中にニュース映像を照射する。


 グノーシス異端船団についての報道が多いが、未だ襲来時期は分かっていない。

 帝国の掌握していない星間空間を航行し、未知のポータルを目指しているためだ。


 彼らが流した映像だけでは、現在位置を特定するのは困難だった。


 ――でも、なんかトール様って余裕があるのよね。


 白いドレスシャツの袖に腕を通しながら、トールの事を考えていた。

 以前とは異なり愚かでも怠惰でも無い。


 ――変な人だけど。


 領邦には危機が迫っており、状況は余談を許さない。

 それでも、自分の心が軽い理由は何だろうか。


 ――そっか。


 久しくなかった感覚だ。


 ――私、仕事に行くのが楽しいんだ。


 ◇


 こうして、それぞれの朝を過ごし、三人はトールの執務室で邂逅かいこうした。


 棚に並んだ装飾品を、意味もなくマリは何度も整理している。


 先史時代よりさらに昔、非常に短い期間だけ情報伝搬手段として活躍した「書籍」を模した装飾品だ。

 「書籍」が発する香りは、不安を鎮める効果があるとされている。


 ――オカルトね。


 不安の減ずる気配など無かった。


 ジャンヌは、ツヴァイヘンダーを脇に立て瞳を閉じていた。

 自らを律さねば、ツヴァイヘンダーを振り回し、あらゆる器物を破損してしまうだろう。


 彼女の実家は、ピュアオビタルではない一代貴族だ。

 父であるユーゴ・バルバストル男爵は、娘がピュアオビタルと結ばれる事を切望した。

 ただのオビタルとちぎるケースは稀なのだが、この美しい娘であれば――と考えたのだ。


 こうして、淑女として躾けられたジャンヌであったが、自身の猛る獣性に気付く。

 父母の反対を押し切ってまで軍に入ったのも、自らを律する術を学ぶ為だったのだ。


 その効果が今試されている――。


 そしてロベニカは――、


「はい、申し訳ございません――日程はまた別途――」


 本日の予定をキャンセルするため、各方面に連絡を取っていた。

 ようやくひと通り終わったのか、軌道都市の慣性制御システムに身を任せソファに腰を落とす。


「はぁ――」


 深く息を吐き、両手で顔を覆う。


「――もう、どこ行ったのよ」


 朝から執務室に居ないし、EPR通信にも応じる気配が無い。


 ともかく不安だった。不安と心配と焦燥と悲嘆と――。


 セバスの手引きで、バスカヴィ宇宙港へ逃げていた時とは状況が異なる。

 領民はもとより、家臣から使用人に至るまで、彼への評価は変わり始めていた。


 思ったよりマシな領主ではないのか?


 距離が遠い人間からは、まだその程度の評価ではある。

 だが、期待値がゼロ――いやマイナスからのスタートなので、プラスに転じただけでも大きい。


 何よりロベニカ・カールセンにとって、無くてはならない存在になりつつあった。

 危機を乗り越えるための支柱、太陽系復興の希望、そして――。


「――そろそろ、決断すべき時ですわ」


 閉じていた瞳を開き、ジャンヌが重々しく告げた。


「分かってる。分かってるけど」


 領主が消えた事を知っているのは、執務室にいる三人だけである。

 ジャンヌは、捜査機関への通報を促しているのだ。


 本来ならば護衛官を交えて事実確認し、広域捜査局に通報すべき事案だ。

 公表しないようマスコミへの根回しも必要になる。


 とはいえ、それにはリスクが伴う。


 オリヴァー・ボルツの手が及び、事態がより悪化するかもしれない。

 現時点で頼れそうなのは、憲兵隊だった。


 詳細は告げず至急支援が必要な事を、憲兵司令のガウス・イーデン少将には伝えてある。

 彼から信用できる隊員を送るとは言われているが――。


「屋敷内のトラッキングシステムはどうですの?」


 領主が暮らし執務を行う広大な屋敷は、当然ながら全住人の動きをモニタし記録していた。

 問い合わせれば、個人の行動記録は即座に分かる。


 だが、ロベニカは力なく首を振った。


「昨日の23時以降、部屋を出た記録が無いの」


 オビタルは、個人のプライバシーをそれなりに尊重する。

 寝室、浴室、洗面所などは、トラッキングシステムのモニタ対象から除外されていた。


 とはいえ、入退室は分かるため、彼が部屋を出ていない事は明らかだ。


「でも――居なかった」


 トールは、簡単な朝食を自室でとる事を好む。

 当番メイドが食事を持っていく日課となっているが、応答が無いため持ち帰ったらしい。


「つまりは、消えたのよ」


 そう言って、ロベニカは深く息を吐いた。

 と、同時に、出勤前には感じていた爽快さを失っている事に気付く。


 何しろ、トール・ベルニクが失踪したのだ。

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