今日は、マリが執務室付きの当番だった。
そのせいかどうかは分からないが、いつもより早く目覚めている。
当番日の自分は、念入りに身だしなみを整えるようになった。
本人からすると大きすぎるように思われる胸を、姿見で何度か確認する。
エロスレーダーに反応があるのだから、少なくとも醜悪ではないのだろう。
彼にとっては、だが――。
「よし」
両手で頬を抑え、口角を少し上げる。
この表情を、いつか誰かに見せられる日は来るのだろうか?
◇
トール付きとなったジャンヌは、屋敷の客室を割り当てられている。
あまり時間は残されていないが、可能な限りトールの剣術を磨いておきたかった。
彼に危害が及ぶような事態にはしないつもりではあったが、戦場では何があるかなど分からない。
乗船を止めた方が良いと揺れる時もある。
とはいえ、ジャンヌ自身が終生の忠誠を誓った相手なのだ。
「そういえば――」
先日の誓いが、途中で遮られた事を思い出した。
「――改めて、誓わせて頂く必要がありますわね」
◇
「ぎゃああ、やばいやばいやばい」
ベッドから跳ね起きたロベニカは、ナイトウエアを脱ぎ捨てて下着姿になった。
シャワーは諦め、髪を整えつつ、部屋中にニュース映像を照射する。
グノーシス異端船団についての報道が多いが、未だ襲来時期は分かっていない。
帝国の掌握していない星間空間を航行し、未知のポータルを目指しているためだ。
彼らが流した映像だけでは、現在位置を特定するのは困難だった。
――でも、なんかトール様って余裕があるのよね。
白いドレスシャツの袖に腕を通しながら、トールの事を考えていた。
以前とは異なり愚かでも怠惰でも無い。
――変な人だけど。
領邦には危機が迫っており、状況は余談を許さない。
それでも、自分の心が軽い理由は何だろうか。
――そっか。
久しくなかった感覚だ。
――私、仕事に行くのが楽しいんだ。
◇
こうして、それぞれの朝を過ごし、三人はトールの執務室で
棚に並んだ装飾品を、意味もなくマリは何度も整理している。
先史時代よりさらに昔、非常に短い期間だけ情報伝搬手段として活躍した「書籍」を模した装飾品だ。
「書籍」が発する香りは、不安を鎮める効果があるとされている。
――オカルトね。
不安の減ずる気配など無かった。
ジャンヌは、ツヴァイヘンダーを脇に立て瞳を閉じていた。
自らを律さねば、ツヴァイヘンダーを振り回し、あらゆる器物を破損してしまうだろう。
彼女の実家は、ピュアオビタルではない一代貴族だ。
父であるユーゴ・バルバストル男爵は、娘がピュアオビタルと結ばれる事を切望した。
ただのオビタルと
こうして、淑女として躾けられたジャンヌであったが、自身の猛る獣性に気付く。
父母の反対を押し切ってまで軍に入ったのも、自らを律する術を学ぶ為だったのだ。
その効果が今試されている――。
そしてロベニカは――、
「はい、申し訳ございません――日程はまた別途――」
本日の予定をキャンセルするため、各方面に連絡を取っていた。
ようやくひと通り終わったのか、軌道都市の慣性制御システムに身を任せソファに腰を落とす。
「はぁ――」
深く息を吐き、両手で顔を覆う。
「――もう、どこ行ったのよ」
朝から執務室に居ないし、EPR通信にも応じる気配が無い。
ともかく不安だった。不安と心配と焦燥と悲嘆と――。
セバスの手引きで、バスカヴィ宇宙港へ逃げていた時とは状況が異なる。
領民はもとより、家臣から使用人に至るまで、彼への評価は変わり始めていた。
思ったよりマシな領主ではないのか?
距離が遠い人間からは、まだその程度の評価ではある。
だが、期待値がゼロ――いやマイナスからのスタートなので、プラスに転じただけでも大きい。
何よりロベニカ・カールセンにとって、無くてはならない存在になりつつあった。
危機を乗り越えるための支柱、太陽系復興の希望、そして――。
「――そろそろ、決断すべき時ですわ」
閉じていた瞳を開き、ジャンヌが重々しく告げた。
「分かってる。分かってるけど」
領主が消えた事を知っているのは、執務室にいる三人だけである。
ジャンヌは、捜査機関への通報を促しているのだ。
本来ならば護衛官を交えて事実確認し、広域捜査局に通報すべき事案だ。
公表しないようマスコミへの根回しも必要になる。
とはいえ、それにはリスクが伴う。
オリヴァー・ボルツの手が及び、事態がより悪化するかもしれない。
現時点で頼れそうなのは、憲兵隊だった。
詳細は告げず至急支援が必要な事を、憲兵司令のガウス・イーデン少将には伝えてある。
彼から信用できる隊員を送るとは言われているが――。
「屋敷内のトラッキングシステムはどうですの?」
領主が暮らし執務を行う広大な屋敷は、当然ながら全住人の動きをモニタし記録していた。
問い合わせれば、個人の行動記録は即座に分かる。
だが、ロベニカは力なく首を振った。
「昨日の23時以降、部屋を出た記録が無いの」
オビタルは、個人のプライバシーをそれなりに尊重する。
寝室、浴室、洗面所などは、トラッキングシステムのモニタ対象から除外されていた。
とはいえ、入退室は分かるため、彼が部屋を出ていない事は明らかだ。
「でも――居なかった」
トールは、簡単な朝食を自室でとる事を好む。
当番メイドが食事を持っていく日課となっているが、応答が無いため持ち帰ったらしい。
「つまりは、消えたのよ」
そう言って、ロベニカは深く息を吐いた。
と、同時に、出勤前には感じていた爽快さを失っている事に気付く。
何しろ、トール・ベルニクが失踪したのだ。