喧騒まみれだったロビーは、小さな騒めきを残すのみとなっている。
「う、うそだろ――」
「なんで?」
「え、本物?本人?」
誰も予想し得なかった事態が発生しているからだ。
彼らの前、宙港セキュリティの背後、そこには上階へと至る大階段があった。
その階段を、二人の女を従え、話題のアホ領主が降りて来たのだ。
これまでは、領邦政治を一切顧みず、放蕩に明け暮れていた男。
その男が侵略者と戦うと言い始めた。
おまけに強襲突入艦へ乗り込んで自身も戦線に向かうと言っている。
単なる乱心か、それとも英雄なのか?
否が応でも、人々の話題の中心にはなっていた。
――いやぁ、凄いな。デモされる側の光景ってこんな感じなのか。
誰にも理解できないが、なぜか彼はニコニコと微笑んでいる。
トールは今後の創作活動に活かせそうだ、と考えていたのだ。
ゆえに、すこぶる機嫌が良い。
――こんなに沢山の人から怖い顔で見られるなんて経験なかなかできないよね。
未だに夢だと考えており、緊張感もあまり無い。
「この程度の人数ならば、私の剣で――」
一方のジャンヌは、集まった群衆に対して厳しい眼差しを向けていた。
忠誠を誓うと決めた主人の安全確保が最優先となっている。
「いや、それはさすがに不味いですよ」
帯剣を抜こうとしたジャンヌを押しとどめる。
千人斬り出来る人間などいないし、トールもそんな夢は見たくない。
「まあ、まずは話を聞いてみようじゃありませんか」
呑気に言いながら、トールは平然とした様子で宙港セキュリティの脇を抜け、抗議する人々の眼前に立った。
結果として、彼と群衆を隔てる物は何も無い。
「と、トール様!」「閣下!」
慌ててロベニカとジャンヌは、トールの元へと走る。
「豪気すぎますわ。あまりに豪気――」
激情家であるジャンヌは、危機的状況も忘れトールへの熱い思いで満たされていく。
身一つで危地に乗り込む豪傑にでも見えていたのだろう。
だが、首席秘書官ロベニカとしてはたまったものではない。
――次から次へと――ホントにもうッ!
真面目に仕事をするのは良いが、彼女からすれば突拍子もない行動が多すぎるのだ。
常に軽蔑と失望を感じていれば良かった頃よりも、逆に疲れてしまうのかもしれない。
「あ、ええと、トールです」
トール・ベルニクの挨拶は、常にぎこちない。
その癖は生涯変わる事なく、女帝ウルドと相対した際の様子は、今なお宮中で語られている。
「皆さんの話を――いや代表の方っています?」
彼の問いを受け、集まった人々は互いの顔を落ち着きなく見合わせている。
一向に誰も前に進み出る気配が無かった。
ここで代表者として名乗れば、どんな目に遭わされるか分からないと考えたのかもしれない。
抗議デモに参加し、その多くは反体制派組織に属しながら、いざとなれば腰が引けてしまう。
比較的寛大な帝国の専制主義制度が生んだ弊害であろう。
だが、いつの時代であれ、羊の群れにも跳ねっかえりは存在する。
「代表では、ありませんが――ちょっと――失礼――」
人々の群れをかき分けて、一人の女が現れた。
先ほどまでテラスから様子を眺めていたソフィアである。
トールが階下に降りると悟り、彼女もロビーに駆け付けて来たのだ。
「トール様、あの女は――」
ロベニカがトールに耳打ちをした。
「あの時の人ですか。なるほど、うんうん」
「捨て置かれるのが得策かと」
ロベニカは、その立場だけでなく、根本思想が体制派である。
愚かな領主であったとしても、全身全霊で仕えてきたのだ。
無論、仕える相手が一線を超えればその限りではなかったが――。
いずれにせよ、ロベニカ自身は反体制派なる存在を良く思っていない。
非生産的で愚かな連中だと蔑む気持ちすらあった。
「ソフィアさんですね」
「ご記憶頂き光栄です、閣下。改めまして、ソフィア・ムッチーノと申します」
「ムッチーノ!?」
頓狂な声が上がり、ソフィアの方が驚く。
「ええ、そうですが……?」
――ムッチーノ、なんて素敵な響きなんだ。
――確かにムチムチした彼女に相応しい姓だな。
――よし、ボクの続編にも登場させるぞ!
「いや、何でもないです。む、ムッチーノさん」
「ソフィアで結構ですよ」
「分かりました。ムッチーノさん」
この音感に対する拘りは、トールにしか分からなかった。
「――まあ、どちらでも良いですが。代表者が出て来ないので、私からお話ししても宜しいですか?」
彼女にすれば、領主と直接話せるまたとない機会だった。
ソフィアでも、ムッチーノでも良い。
「だめ――」「ふとどき――」「いいですよ」
三人の声が重なるが、当然ながら立場上トールの発言が優先される。
「有難うございます」
ソフィアは、礼を言って軽く頭を下げた。
前回の会見時とは異なり、目と鼻の先――触れられそうな距離に相手がいる。
いつもの秘書官からは
初見となる軍服の女からは殺気めいたものを感じる。
ソフィアは二人を確認した後、その主人であるトールに目を向けた。
話題の領主の方は――、
――好奇心――なのかしら?
何も見逃すまいとする、どこか楽し気な瞳があった。