そのころ衣笠組の厨房では、喜一が肩を上下させ荒い息を吐いていた。
「喜一兄ぃ、これは……どうしたんで……」
完成した団子をのせるための大皿を手にした少年幸太が、恐る恐る聞く。なにせ、菓子作りに専念しているはずの喜一の眦が吊り上がっていて、足元には人がゴロゴロ転がっている。まるで、喧嘩をした後のような有様なのだ。
「おう、幸太……」
「へ、へぇ」
「こいつらを、ふん縛って大川へ捨ててこい」
「え!?」
「今すぐだ!」
喜一の足元で伸びている男たちは何か喜一を怒らせたに違いない、そう察した幸太は、近くに落ちている紐で兄貴分たちを手際よく縛り上げる。
「あっ、こら、幸太! 何をする気でいっ!」
目を覚ました一人が喚く。
「喜一兄の命令で、大川に捨てに行く」
「なっ、なんだと!?」
だが、困ったことに大川まで捨てに行くには、幸太は子供過ぎた。大の大人を一人背負い、うんしょうんしょと顔を真っ赤にして衣笠組の表に出たところで、力尽きた。
「喜一兄ぃ……おれじゃとっても川まで運べない」
「よおっし、仕方あるめぇ、玄関前に積み上げておけっ!」
「はーい」
それからほどなく、帰宅した太一郎は口をあんぐりとあけた。
「なんじゃこれは……」
大戸の前に、縛られた子分たちがごろごろと転がされている。芋虫のごとくに体を動かしてなんとか紐を解こうとしているが、成功した人はない。道ゆく人々が、くすくす笑いながら遠巻きにしている。
「親分! 助けてくだせぇ」
「これはいったい、どうしたのじゃ」
「あっ、親分、解いちゃだめです。喜一兄ぃが怒ったんです」
太一郎の声を聞いて、幸太が走ってくる。手には縄と鋏を持ち、真夏の如く汗をかいている。そして芋虫どもの紐が緩んだと見るや否や、鮮やかな手並みで縛り直していく。
「喜一が怒った、と?」
「鍋の前でそれは恐ろしい顔で」
「鍋?」
「餡がどうとか、粉がだめだとかぶつぶつと……」
太一郎は、慌てて厨房へと走った。
その途中、餡子の甘い匂いがふわりと漂い、太一郎の腹がぐう、と鳴る。
「喜一、表の騒動はどうしたことじゃ」
「親分、おかえりなさいやし。あいつら……躾が足りませんで、ちと、叱りつけたところで」
ぎろり、と太一郎が竦むほどの強い視線の喜一は、ぎりり、と布巾を握る。
「う、うむ。鍋がどうのと……」
今度は一度天を仰いだ喜一が、がくりと項垂れた。
「漉餡を盗み食いしたすっとこどっこい……米粉に冷水を一気に流し込んだトンチキ……彼奴等のせいで餡が減り団子が作れなくなりましたんで……」
「な、なんじゃと!?」
太一郎の声がひっくり返った。いつも喜一が菓子を作る時は周囲を徘徊し、作る手順をすっかり覚えている。すなわち、
「喜一っ! それではお絹さまに召し上がっていただく菓子が減るではないか!」
「減るどころか……団子が数個しか作れません」
喜一が、しょんぼりと肩を落とす。菓子作りの師と仰ぐお絹に、自慢の団子を食べて欲しかったのだ。
珍しく喜一が張り切っていたのを知っているだけに、太一郎もがっかりしてしまう。
ふたりしてしょんぼりしていると、明るい声が降ってきた。
「おや。二人して暗い顔とは珍しい」
「親分、喜一さん、声をかけても返事がないから来てしまいましたよ」
「ややっ、英次郎! お絹さま!」
佐々木家の二人が、にこにこと穏やかな笑みで立っている。
「これは出迎えもせず相済まぬことです」
「いえいえ、子分さんたちが丁重に迎えてくれましたよ。それよりも、その粉はどうしたのです」
「うちの出来損ないが一気に水を入れやがりまして……」
「あらあら、ちょっと見てみましょうか」
手にしていた荷物を英次郎に渡したお絹が、さっとたすき掛けになる。喜一と一緒に、粉の様子を見る。
「大丈夫ですよ、菓子作りは何とでもなりますからね。一緒にお団子を作りましょう」
すっかりしょげ返っていた喜一の顔が、ぱあっと明るくなる。年季の入ったやくざ者であるはずの喜一が、まるで純真無垢な少年のようになる。
「親分、菓子は母上に任せて大丈夫だ」
「よかった、さすがお絹さまじゃ」
言いながら太一郎は英次郎を連れて表へと向かう。喜一の逆鱗に触れて縛られた子分どもを救わねばならない。
「さて、紐を解き放ってやる理由がいるな」
にっ、と英次郎が笑う。
「英次郎、やくざ者である我が組の流儀を覚えずともよいのだぞ」
「新しき南蛮菓子の材料を買いに行く、という理由はどうだろう?」
英次郎が、お絹から渡された風呂敷包みを解く。中には、新しい製菓書が入っている。流麗な女文字だ。
「これは、クルチウス商館長らから渡された製菓書と見本の菓子を元に、母上が考案した菓子作りの本でな、喜一どのと試作するそうだ」
「よしきたこれなら、喜一も喜ぶ」
それに美味そうじゃ、と太一郎がよだれを垂らさんばかりになる。
甘味を食った後は素振りだな、と一人小さく笑う英次郎だった。
【了】