待つことしばらく、子供たちに手を引かれてやってきた佐々木家の次男坊・英次郎は、橋の上で項垂れる親分の前にかがみ込んだ。
「親分、こんなところで項垂れて……みっともないぞ」
「ああ、英次郎……幼な子とはなかなか惨いのう……」
「何か言われたか」
「わしは……三つになる子よりも走るのが遅いそうな……」
「なんだ、そのようなことか」
爽やかな笑顔を浮かべた英次郎は、近頃よりいっそう厚さを増した親分の腹肉を無遠慮に掴んだ。むに、と掴んだその手から肉がはみ出た。英次郎は思わず苦笑いを浮かべた。
「いくらなんでもこれはひどいぞ、親分」
「そうか? いや、そんなことよりも英次郎、ここ数日、探していたのだぞ」
どうしたのだ? と笑う英次郎は子供たちの手にいくらかの小銭を握らせて長屋へ戻るように言い含め、自身は親分の横に腰を下ろした。
すでに日が傾きはじめ、日本橋を渡る人の数も川面をすべる舟の数も少なくなっている。
「済まぬな。昨日から、名も知らぬやくざ者同士が喧嘩するとかで、助太刀に出ておったのだ」
やれやれ、と太一郎はため息をついた。
「そなたの剣の腕前は、かようなことに使うためのものではあるまいに……」
「しかし、これで、たまりにたまった方々のつけの一部が払える」
英次郎が嬉しそうに笑って懐を叩いて見せた。
英次郎は、一刀流の流れをくむ流派の免許皆伝だ。若いが、十分に修練を積んだ剣士である。その上、様々な依頼をこなして実戦経験を積んだことによりその剣は凄みと巧みさをも、備えつつある。太一郎は何人も剣の達人を知っているが、英次郎に勝てる者は誰がいるだろうか。
世が世なら、大名家に剣術指南役として召し抱えられてもおかしくはない腕前なのである。
異人の警護を依頼しにきた太一郎が言えたものではないが、英次郎の剣をそのような事や悪事に使って欲しくないのだ。
「……そなたの剣が穢れてしまうでな」
「ところで親分、用事があったのではないか?」
「おお、そうじゃ!
承知した、と、英次郎が頷いた。
「親分、それがし、
「うむ、そうじゃな」
「亜米利加国は阿蘭陀国とは違う国であるから、当然、着る物や食す物も異なるのであろうな」
「然り。阿蘭陀国と亜米利加国はな、話す言葉が異なるのじゃ」
なんと! と 英次郎の目が輝いた。
「そういえば親分、母上が蘭語の辞書が見たいとかで、取り扱っている店を知らぬか聞いてくれと」
「今はどこにも置いておらぬはずじゃな。されど我が倉に二、三積みあがっておるが、まさかにお絹さまに質草をお渡しするわけにもいくまい……そうじゃ、知り合いの蘭学者に借りておこう」
英次郎が苦笑した。親分の顔が広いことは承知しているが、やくざの親分と蘭学者がどのようにして知り合うのか些か興味がわく。
それを察したのであろう親分が、複雑な顔をした。
「大酒のみの大博打うち、酒にも博打にも女にも食い物にも弱いという困った御仁でな。そこらじゅうの金貸しから大金を借りておきながら屁理屈を捏ねて踏み倒し、取り立てから逃げ回って破れ寺で寝泊まりして道ゆく人に金の無心をしていたところをわしが助けたのじゃ」
英次郎の口があんぐりと開いた。大変な学者先生もあったものである。
「蘭語の貴重な書物やら医学書やらまでもが質草になってうちに鎮座しておる。それを聞き付けた蘭学者や蘭医や通詞が朝な夕なに押し掛けてくる有様じゃ」
刀剣の部類を質草にする侍がいるのであるから、それらを質に入れる学者がいてもおかしくはない――のかもしれない。
「親分、今回も少しでいいから亜米利加国の御仁と話がしたい。母上にも、いろいろと話して差し上げたいゆえ……」
「うむ、取り計らおう」
ありがたい、と英次郎は頬を緩めた。
「さて英次郎、そろそろ帰ろうか」
どっこいしょ、と、太一郎が腰を上げた。が、どうしたことか、ずでん、と尻もちをついてしまった。
「いたた……」
「親分! しっかり……」
助け起こそうとした英次郎が、目を白黒させた。
「重い、親分!」
「む!」
「少し痩せたが良い」
む、と親分の眉が下がる。あのな、と、英次郎が真顔になる。
「親分の肥えすぎは我が家でも話題になった。ことに我が母上がたいそう心配している」
「なにっ、お絹さまがわしの心配を?」
「うむ。親分が病に倒れるのではないか、重さを支える足腰が悪くなるのではと心配して、肥えぬ甘味の研究を始めるとか」
そうか、と、親分が太い溜息を落としながら、欄干につかまって立ちあがる。
「近頃……組の仕事が何かと忙しくてな。つい、甘いものを食べ過ぎてしまうのだ」
「親分は忙しいと食べるくちか」
「……そなたは違うのか?」
「忙しいと、食事がのどを通らぬ。しかし衣笠組が忙しいとは穏やかではないな」
なにせ、親分の本業はやくざと金貸しである。彼らが忙しいということは、良くないことが
「近頃の賭場の客は、やたら用心深くてな……。本当に衣笠組の支配している賭場なのか、本当にわしが胴元なのか疑ってかかるゆえ、毎度、賭場に顔を出さねばならん」
「な、なんだと?」
「それもこれも、我が組の名前を騙って盛大に賭場を開き客の有り金全部巻き上げて自分たちはさっさと逃げる、かつてないほど悪質な連中が跋扈しておるゆえ、致し方ない」
はぁ、と、英次郎は何とも言えぬ声を出した。衣笠組を騙るとはずいぶん豪胆な悪党である。
「客はこちらの身元を疑ってかかるし、常連客は奪われた金を取り返してくれ、奴らは何者だ、仕返ししてくれろ、と、泣きついてくる。顔馴染みの願いを断ることはできぬ」
「それで親分、毎日忙しく出歩いておるのか」
「うむ。わしの顔を見るまで安心できぬという客があちこちにおる。かといって、近くまで行っておきながらほかの所を素通りするのも妙な話であるゆえ、結局毎晩、縄張り中を走り回ってあちこちに顔を出し、探索状況の説明をせねばならんのだ」
衣笠組の仕切っている賭場は、一つや二つではない。本所界隈のみならず、朱引きの外にもいくつもあると聞いている。
動くことを嫌う親分に、それらを順番に訪れよというのはかなり酷な話ではある。
「調べれば調べるほど、わが組だけでは手に負えぬということがわかってな。かくかくしかじかと南町に駆け込んだのが五日ほど前のことであるが……連日のように奉行所やら役宅に呼び出されて、正直、辟易しておる」
来てくれと請われれば、どこまででも出かけていくのがこの親分の性分だ。それが、配下のやくざ者でも、義兄弟の間柄のやくざ者の頼みであっても、ちょっとした縁の盗人であっても、近隣の善良な町人でも武家でも、奉行所でも、同じなのである。
よくこれでやくざの親分が務まっているなと感心するほどに、人の好い親分なのだ。
だからこそ、英次郎も付き合っていられるのだが。
「……親分、ご苦労であるな」
「労ってくれるのはそなたくらいのものよ」
に、と、太一郎が笑った。