鼻を押さえた男がゆらりと立ち上がり、
「其の方、長崎屋の用心棒か。そこをどけ」
と、はっきりと英次郎に殺意を叩きつけてくる。だがそれ程度で怯む英次郎ではない。
「貴殿こそ、長崎屋に何の用か。見たところ至って健やかなる身体、薬種問屋に用があるとは思えぬが」
「薬に用はない。我々はそこの二階に滞在している異人どもに用があるのだ」
「どのような用だ。申してみよ」
浪士が、じろりと英次郎を睨みつけた。が、すぐに目線をそらした。英次郎はまだ抜いておらず、わずかに腰を落としてそこに立っているだけであるが、まったく隙がない。
「……せぬ」
「なんと申した」
「どうして江戸に異人がおるのだ。それが許せぬ。役人とこそこそ密談して何をするつもりだ。異人は直ちに国へ帰れ。我が国に異人は要らぬのだ。帰らぬのなら排除するのみ」
攘夷論者か、と太一郎が呟いた。
「じ、じょ……なんと?」
「攘夷じゃ、英次郎」
「また知らぬ言葉が出てきた」
英次郎はその言葉の意味を太一郎に聞きたかったが、生憎聞いている暇はなかった。
いつの間にか次の浪士が姿を現して抜刀していたのだ。袴の股立ちを高くとり、決死の形相だ。そして英次郎を牽制するかのように間合いぎりぎりの位置に立つ。
「しまった。気を散らしてしまった」
苦笑いを浮かべながらもようやく抜き合わせた英次郎の目の前で、最初の男が声を張り上げた。
「皆の者、聞け! 我が藩の藩士が過日、異人と乱闘になり、異人が用いた短筒にて右腕を負傷いたした。三日三晩苦しみ抜いた挙句、仔細わからぬまま同胞は詰め腹を切らされた。されど危害を加えし異人どもは謝罪すらせず行方を晦ませたまま。誠に許し難し。然るに我らは脱藩し、無念のうちに死んだ同胞の仇を討たん、異人を排除すべしと起ち上った」
「なに? この宿に泊まっている阿蘭陀人が、そのような乱暴狼藉を働いたのか?」
英次郎の問いに、太一郎が物凄い勢いで首を横に振った。
「その話はわしも小耳にはさんでおる。ピストルを撃ったのはクルチウスたちではないぞ。
その太一郎の言葉を正確に理解できたものは、長崎屋にいた人物だけだろう。襲撃者も英次郎も、いつの間にか集まっていた見物人も首を傾げた。
「親分、異国とはそのように多くの国があるのか」
「うむ」
「我らの知らぬうちにそのように多くの国が、既に我が国に上陸しておるのか……なんということ……」
愕然としたように英次郎が呟いたが、太一郎は慌てて英次郎の後ろに隠れた。鬼の形相をした浪士が一人、突っ込んできていたのだ。
「英次郎、何を呆けておるのだ! 右手からきたぞ」
「お、おお……相済まぬ」
はっと我に返った英次郎は、迫りくる白刃を難なくかわし、すれ違いざまに浪士の首筋を峰で打った。
「ぐうっ……」
だらりと浪士の腕が垂れ、刀が地面に転がった。ゆっくりと男の身体が地面に倒れ伏し砂埃が舞い上がった。
「次は誰だ?」
仲間が倒されたことで冷静さを欠いた浪人たちが、一斉に襲い掛かってくる。それらを丁寧に倒していた英次郎が、慌てたように太一郎を呼んだ。
「しまった、親分。あちらの物陰に潜んでいた二人ほどが、長崎屋へ突っ込んだぞ」
「なにっ、フリシウス、襲撃じゃ! ライターに剣を取るよう伝えよ! カピタンを守るのじゃ。フリシウス、聞いておるか!」
二階の窓ががらりと開いて、異人が三人、顔を出した。一人は片手を挙げて太一郎に応え、もう一人は細身の剣を手にしている。異人の姿を見た見物人が、どよめいた。
それでも太一郎は安心できないのだろう、大きな体を揺すって長崎屋へと走る。その背に、英次郎が続く。
「英次郎、中へ入ったのは憂士組じゃ、急げ!」
小さく頷いた英次郎は、太一郎をふわりと追い越して颯爽と長崎屋の二階へと飛び込んだ。
「英次郎、頼んだぞ」
「承知」
二階へ足を踏み入れた英次郎は、面喰って足を止めた。
まず、天井が高い。窓には硝子が嵌っている。そして、畳が敷いてあるべき場所には、なにやら緋色の敷物が敷かれている。
室内の調度品は、馴染みのある棚や文机は部屋の隅に置かれ、見たことのないものばかりである。
「これが、異国か……」
文机や座布団ではなく脚の長い卓や腰かけがある。卓の上には色のついた瓶がいくつか並んでいて、その傍には無色透明の不思議な器がある。甘酸っぱい芳香は、その瓶から漂っているのだろう。
そして部屋の奥では三人の狼藉者と武家が睨みあっている。
その武家が背後にかばっているのは、さきほどの三人の洋装の男だ。いずれも背が高く、鼻が高い。太一郎が言うには瞳の色も違うらしいが、ここからではよく見えない。ライターも剣を構えてはいるが、斬っていいものか迷いがあるのがありありとわかる。
英次郎は焦った。英次郎が見る限り、狼藉者の方が強い。おそらく、クルチウスたちを守ろうとしている武家は、刀を抜いたのもはじめてに違いない。すっかり腰が引けて、刀が重たそうですらある。
そして、襲撃者の一人が剣を動かし、武家がどうっと倒れた。そして無防備になった阿蘭陀人に向けて踏みこむのと、英次郎が戦闘に割って入るのと、細身の剣を構えたライターが前に出るのがすべて同時だった。
「引け! その方ら、何奴か! 何の謂れがあって襲撃するかっ!」
びんびんと腹に響く、英次郎の見事な
「見たところ相当の遣い手。貴殿、名は」
赤黒い顔になった狼藉者の一人が低く唸る。
「それがし、御先一刀流免許皆伝・佐々木英次郎と申す。太一郎親分に頼まれて、クルチウス商館長らを守りに来た」
朗々とした英次郎の言葉に、武家や商人たちは安堵し、フリシウスは嬉々として通訳する。が、それとは逆に、憂士組の面々の殺気が膨れ上がった。
「我々は国の行く末を憂う志士である。越後屋!」
名指しされた商人が、びくりと体を震わせた。
「この国を乗っ取りに来た異人相手に商売するとは怪しからぬ。越後屋の荷はすべて我々が差し押さえる。異人どもの持ち込んだ怪しげなる品物は直ちに差し出せ。我らがすべて焼き払ってくれる!」
「何を勝手な理屈をこねておるのだ。その方ら、どうせ越後屋どのの荷も、商館長らの荷もすべて闇から闇へ転売するのであろう。その程度の事が見抜けぬ英次郎と思うたか、たわけっ!」
勘弁ならぬ、と一人が叫んで三人が一斉に英次郎に襲い掛かる。いつもこの三人で戦っているのだろう、間合いの取り方や互いの癖を把握しているのが英次郎にはわかる。その連携を断ち切りながら、最も腕がたつ男の右腕を切り落とし、残りの二人は足と手首を切った。これで彼らは、二度と刀を振るうことはできないだろう。
呻く襲撃者たちを横目で見ながら、英次郎は刀に懐紙で拭いをかけ、丁寧に鞘に納めた。