湯船につかったまま、浴槽の脇に置かれた桶を手に取る。
すると一瞬の抵抗の後に、「かぽんっ」という呑気な音が辺りに響き渡った。
「ふぃー……極楽、極楽……」
石造りの浴室内で反響する脱力の調べに聞き入っていると、思わず間抜けた声が携帯式の水晶灯が吊るされていた天井へと向けて漏れ出でてしまう。
「湯加減はどうかしら? ぬるいようなら、もうちょっと薪を足しておくけど」
「いやー……丁度いい塩梅だよ。しかし薪の風呂釜っていっても、シュクサ村にあったのと殆ど変わらないんだなぁ……」
換気口として設けられた小窓からやってきたフェレシーラの問いかけに、浴槽に背を預けて声を返す。
その合間にも、暖かな湯の中へと一日の疲れがじんわりと溶け落ちてゆく。
「あー……そういやパトリース、そっち寒くないか?」
「大丈夫です……! ちゃんと『防壁』で保温してもらってますし、焚火のおかげで暖かいので!」
「ういうい。それならよかった……はー……ありがとな」
「むぅ。私への心配はなしなの? ちょっとパトリース、追加の薪もってきて頂戴」
「了解です、フェレシーラ様!」
「ちょ――ばか、おまっ! いま丁度いい湯加減だっていったばかりだろ!?」
「馬鹿とはなによ、馬鹿とは! 薪、良く乾いた燃えそうな奴、多めね!」
「はーい!」
なんて一幕も挟みつつ、そのまま俺たちは『本題』へと踏み込んでいった。
「なんで俺が、陣術には詳しいか、かぁ……うーん」
「詳しいっていうか、使えるのか、ってとこだけどね。彼女が気にしてるのは。そうよね、パトリース」
「あ、はいっ。フラムからは、術法は半端な形でしか扱えないって聞いていたので。なのにセレン様が陣術を使ってこの建物を造った時、全体を上手くサポートしているように見えて……その後も、実際に使えるような口振りで講義を進めていたりしたので。そこ、すごく気になりました……!」
「ふーむ……なるほどなぁ……」
フェレシーラに促される形でやってきたのは、パトリースからの疑問、疑念。
こちらとしては「魔術士としては半端者」と使えたつもりだったが……彼女からしてみれば「フラムは術法が使える」という感じなのだろう。
さて、この認識のズレ。
一体どう説明したものかと思うが、ここはやっぱりアレだろう。
「なあ、パトリース。いまこの浴室の天井に吊り下げられた水晶灯。どんな理屈で光ってるかわかるよな?」
「へ? 水晶灯って…えと、水晶灯って術具だから……アトマで『照明』の魔術効果を得て、光っている……?」
「うん、正解。大当たりだ。それじゃ水晶灯、つまり術具には霊銀盤に術法の式が刻まれていて、それを読み取ることで詠唱部分を含めて作動するわけだが……そこはわかるかな?」
「は、はい。神殿に入る前の仮試験で、教団のも受けていたから、簡単なことなら……っ」
「オーケーだ」
緊張気味なパトリースの回答に、俺は湯船の中より見えぬ頷きで返す。
第一印象ではお転婆娘、勉学に関してはからっきし、という(失礼な)イメージがあったが……話をしてみると、なかなかどうして努力の形跡が伺える。
「それでは次の質問だ。術具と似ている形式の術法……っていえば、なにか心当たりはないか?」
「術具と似ている術法……?」
暫しの間、パチパチと薪の燃える音だけが周囲に響く。
さて。
少し考えればというか、昼間の出来事を思い返せばわかる内容だが――
「……あ!」
バチンッ! と、薪が大きく割れ爆ぜる音と共に、その声はやってきた。
「陣術よ! そう、陣術!」
弾けたように声をあげて、パトリースが続けてきた。
「魔術や神術と違って、使う人の外に式があるのが術具と同じだし。陣にアトマを流し込むのも同じ! セレン様は、呪文の詠唱もしていたけど……それはたぶん、霊銀盤っていう詠唱を肩代わりするものがないから、術を使う人がやる必要があって。式の大半は、陣任せ!」
見習い従士の閃きを受けてか、頭上にあった水晶灯が、一瞬その輝きを大きく増したように見えた。
「だと、おもうけど……違いました?」
「いや、それも正解だ。御名答ってヤツだな。すごいぞ、パトリース」
「……!」
素直に感じたことを述べると、石壁の向こうからガッツポーズを取る気配がやってきた。
「そもそも術具って物自体が、陣術から派生した代物だからな。霊銀盤の開発と発展で術具がどんどん出回って、いまは公国では使い手が殆どいなくなったって聞くけど……」
「……けど?」
「うん。俺が術具なら使えるって話はしていただろ? 術法式を組むのは……下手くそで、上手く魔術や神術は使えないんだけどさ。でも、術法式を外部で組める陣術なら――どうかな?」
「……! うん! アトマを流し込めばいいから、フラムも使える! だからセレン様が陣術でむちゃくちゃした時も、皆に指示を飛ばして陣をコントロールしていたのね!」
「むちゃくちゃって。いや、まあ、とんでもない術だったけどさ、たしかに」
興奮気味となった声に押されてしまい、ついつい苦笑してしまうも……
パトリースの完璧ともいえる回答に、俺は満足感を覚えて湯に首元まで身体を沈めていた。
「ねえ」
「ん?」
「今の話が、彼女のためっていうのはわかるのだけど」
不意にやってきたのはフェレシーラの声。
コンコンと薪同時の当たる音が聞こえてくるあたり、会話の最中も火の勢いを調整してくれていたのだろう。
「つまり貴方が言いたいのって。『陣術は使えても術士とはいえない』って話よね」
「へ……? あー、そうだな。そういうことになるな。いまの話だと」
確かめの声と、それに続く、自ら発した戸惑いの声に……俺はまたも苦笑してしまう。
「うん。わかってるよ、フェレシーラ。つまんない
「べつに、つまんないだとかは思わないけど……ただ……」
言葉尻を濁してきたその声は、湯船から立ち上がる水音でかき消されてしまい、最後まで聞こえてこなかった。
「俺の目標は魔術士
桶を手に湯を一杯掬うと、その半分ほどが満たされた。
それを俺は頭からかぶる。
ばしゃりという散水の響きと共に、なにかが洗い流されてゆく。
「だった、ですか……?」
「うん。いまとなっては過去形だ。目標が変わったからな」
パトリースの問いかけに応えてみると、心の片隅でずっと抱え続けていた
「その……目標って、聞いてもいいんでしょうか」
遠慮がちなその問いは、おそらく俺にのみ向けられたものではない。
濡れた髪へと、冷たい夜風が吹きつけてきた。
「おーい。『防壁』途切れてるぞ。風邪って神術でも治すの難しいんだろ?」
「ん……聞きたいかな。私も」
ちぐはぐな感のあるフェレシーラの返事があり、風が再び途切れた。
いい感じに醒めた頭を振り、俺は暖かに湿った空気を肺へと取り込む。
「誰よりも強くなる。それがいまの俺の目標だ」
あらためて、それを確認する。
魔術士になりたい。
その想いが完全に消え去ったわけではない。
いまも心の片隅でどうしようもなく、
だが、しかし――
「白羽根の聖女。聖伐教団最強の神殿従士。その傍に在り続けるために。術具だろうが陣術だろうが、自分の力に変えてゆく」
最早無用となった筈の薪が、カタコトと音と立てて炉にくべられてゆく音に心地よさを覚えながら、
「それがいまの、俺の拘りだよ。フェレシーラ」
俺は手桶の中身を、彼女が生み出してくれたぬくもりで満たしにかかっていた。