一体何事かとこちらが顔をあげると、そこにはカルテを投げ出し、腹を抱えて笑うセレンの姿があった。
「くく……そうか、私が師に、ね……くぷっ!」
え、マジで何なんだこの人、この状況。
隣にいるパトリースも呆然って感じで眺めているし。
あっ、ホムラ、その人に迂闊に近づいちゃいけません。
お世話にはなったんだろうけど、色々とアブナイ気がするぞ……!
「ああ、いやいや、失敬失敬。これは本当に失礼をしたね、こちらこそ……あー、おかしい。申し訳ない。見苦しいところを見せてしまった」
「それはいいんですけど。俺、なんかそんな可笑しいこと言いました……?」
「いや、おかしくはないんだ。可笑しいが、おかしくはない。うん、まあ説明しよう。ああ、そうだパトリース。君は少し席を外してくれ給え。というかもう看病の必要はないな。自室に戻るといい。協力ご苦労。ハンサにはいい子にしてたと伝えておこう」
「はぁ……ふぇ!?」
セレンの言葉に、パトリースが素っ頓狂な声をあげてきた。
彼女にしてみれば、話を聞く気満々だったのだろう。
「え、な、なんですか、なんだかおもしろ――いえ、たのしそ――じゃない。ていうか、私べつにハンサなんかに」
「パトリース。むざむざと自らの評価を下げるような行為は、神殿従士には相応しくないと思うよ。悪いことは言わない。部屋に戻り給え。日夜人手不足に喘いでいる教会への推薦状を、この場で
「……っ」
うおー……なんかサラリと凄いこというな、この人。
ていうかこの圧のかけ方は、パトリースが教会行きを嫌がってるって話も知ってるな。
ここにセレンが来る前に彼女と話した感じでは、皆には秘密、って感じだったけど……
人事的な問題だし、ある程度上の人間には話が通っているのは、当然といえば当然か。
「了解しました。失礼します」
結局、パトリースは折れるしかなかった。
看病をしてもらった身で心苦しくもあるが、既に通り一遍の話は彼女にもしてある。
ホムラのことにまで嘴を突っ込ませる必要もないし、させる気もないというのがこちらの本音だ。
「後でつきあってもらうから」
「あー……訓練が終わったあとにもでもなら」
去り際の言葉に、俺は出来る限り声を潜めて返した。
それを聞いて、パトリースはすまし顔で病室から立ち去っていた。
「なかなかの難物だろう」
「聞こえますよ、そういうの。せめて足音が消えてからにしておかないと」
「生憎そこまで耳の方は良くなくてね。さて、話はたしか……血の契約についてだったね」
セレンが発した確認の言葉に、頷きで応じる。
随分と返事を勿体ぶってきた上に、人払い紛いな真似までしてきたわけだが……
それだけに何か他言はしたくない理由があるのだろう。
綿の白衣の襟元を一度しっかりと揃えてから、俺は彼女の言葉を待ち構えた。
「まあ、隠したところで意味もないので言ってしまうがね……あの契約法を提唱したのは師ではない。この私だ」
「……え?」
「とはいえ、あの頃はまだ私も儚く可憐でか弱い少女にすぎなかったからな。実践をして理論に間違いがないことを証明してくれたのは、師バーゼルだ。持つべきは頼れる師、といったところか」
話の内容についていけないこちらを置き去りにして、尚も説明が続く。
それもかなり愉しげな様子で。
「あの頃の私は師に良いように使われていたのでね。なにか一つでも、研究者として出来るのを知らしめてやりたかったのだよ。そういう意味ではこの契約法は、くだらないプライドの産物とも言えるな」
セレンの視線が、いつの間にか寝台の上に転がっていたホムラへと移る。
「額から生じた刻印が全身に伸びている。上手くアトマの供給が行われている証左だ。師が初めてこれを用いたのはワイバーンだったが……結局は術者のアトマが適合しなかったのか、はたまた魔物側が支配されることを拒絶したのか。一日ともたず刻印は消滅し、自由となったワイバーンは空に逃れてしまった」
「支配を拒絶って。それじゃ俺はその契約法でホムラを縛っている状態なんですか」
「さてね」
「さてね、って……いやそこは大事なような……」
「そう言われてもな。そもそもワイバーンとの契約法が破綻した時点で、師は驚いた風でもなかったからね。私の目的は魔物の支配にあったが、あの人は血液を媒介した程度で容易く対象を縛ることなど不可能だと見抜いていたのだろう」
血液を用いて、魔物を……生物を支配する。
確かにその条件のみでそんなことが可能なら、とんでもない芸当といえるだろう。
だが……
「その、一日ともたずに刻印が消えたって。その間にワイバーンに言うことを聞かせたり出来たんですか?」
「簡単なものであればね。とはいえ命令というよりは、言葉が通じずともある程度の意思の疎通が取れた、というレベルではあったが」
「……強制力はともかく、話しかけることは出来た感じなんですね。なら、逆はどうだったんですか。ワイバーンの言いたいことがわかったりしたんですか?」
その問いかけには、否定の首振りが返されてきた。
なるほど。
支配を目的に編み出してはみたけど、効果としては一方通行の『念話』程度に留まった感じなのか。
「てことは、互いに血の契約を交わせば『念話』状態で意思疎通出来る可能性があるのか」
「いや。残念ながらそれは不可能だった」
「あ、試してたんですね。そりゃそうか」
術法的な縛りや負担……いわゆる『
段階は踏むにしろ、個人レベルでの術法の研究はそうやって積み上げられていくものだ。
俺の元師匠、マルゼスさんだって『隠者の塔』で色々試していたし、その手伝いをしたこともある。
「ちなみに、なんでそれ無理だったんですか」
「被術者である人間側――その時は研究室に忍び込んだ賊が対象だったがね。彼の精神に異常が生じ始めたので中断した。一応『平静化』の術法で処置して官吏に突き出したが……その後どうなったかまでは知らないよ」
「な、なるほど……そいつも運がなかったですね。答えてくださり、ありがとうございます」
顔色一つ変えずに答えてきたセレンに、俺は若干引きつつ礼を述べた。
まあ、ちょっと考えれば無理があるってわかることか。
なんていうか、多分だけど。
人間と違って魔物や魔獣の心の中は相当に「うるさい」はずだ。
例え頭の中に響いてきたのが、食欲や破壊衝動みたいにわかりやすい欲求だとしても。
もしそれが、ほぼひっきりなしに叩きつけられてくるとしたら。
普通の精神をしていたら、頭がどうにかなってもおかしくないというか、むしろそれが普通だろう。
でも……そうなると俺は、知らずにホムラにそれをやってしまっているのかもしれない。
ホムラとは、まるで言葉が通じ合ってるように感じることが多々ある。
俺はそれを単純に良いことだと思い込み、これまであまり深く考えずにいたが……
もしかしたら、今の話にあったワイバーンや賊のように、望まぬ「声」を浴びせ続けていたかもしれないのだ。
そうだとすれば、それはホムラにとっては相当な苦痛だろう。
「師がいうには、その後の契約法はアトマの供給を主目的として改良する、ということだったよ」
「……そうなんですか」
「ああ。彼は別に支配の法など欲してはいなかったようだからね。己の欲するものの為に、適する形に手を加えていった、というところだろう。私のその副産物にあやかり『魔幻従士』などと呼ばれているわけだが……因果なものだね。こうしてまた師の御業を目にするとは」
「すみません、気を使わせてしまって……」
「ん? ああ、別にそういうわけでもない。あの人が達者だとわかったのは喜ばしいことだ」
言いながらセレンがカルテの上に紙の束を置き、そこに何事かを書き記し始めた。
暫しの間、部屋の中にカリカリと筆の走る音だけが響く。
「ふむ――ま、こんなところかな。持っていき給え」
「これって……」
そうして差し出された紙束を、俺は受け取り呟いた。