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第136話 闇よりの帰還

 辺りに闇が満ちていた。

 己がどこにいて、瞼が開かれているのかさえもわからない。

 いや……それどころか、自分に体があるのかすらも知覚出来ない。

 重く息苦しさに満ちた、粘りつくような闇だ。


 一体いつからこうしていたのだろうか。

 つい先程まで、誰かと言葉を交わしていたような。

 ……もうずっと、独りでこうしていたような。


 そんな判然としない感覚に沈んでいると、どこからか声がやってきた。

 声。

 複数の声。

 聞き覚えのある男女の声だ。

 その出処を探ろうと、闇の中でもがく。


 しかし、上下左右、自分がどこを見ているかもわからない。

 なにせ辺りは完全な闇なのだ。

 目で探すのは無駄に思えた。

 となれば、耳を澄ますしかないだろう。


 幸い、なのだろうか。

 辺りでは彼らの話し声以外、なんの音もしていない。 

 不要な知覚を切り捨て音を聞くことのみに集中してみる。

 するとこちらに届いてきていた声が、一気にその音量を増してきた。


「――!」 


 先に聞こえてきたのは、女性の声。

 無明の闇に朗々と響く、威厳に満ちた力強い声だ。


「……、……」 


 続いてやってきたのは、落ち着いた雰囲気の男性の声。

 こちらはなにやら、諭すような口ぶりだが……

 しかしそのどちらも、意味のあるものとしては聞こえてはこなかった。


 間近で交わされる声に、『俺』は戸惑う。

 なにか、大事なことを忘れてしまっている気がしたからだ。

 自分はこんなところにいる場合ではない。

 自分には、なにかやるべきことがあった気がする。


 だがしかし、それが一体なんなのかが、まったくわからない。

 澱んだ闇がもたらすぬるま湯の如き感触が、緩慢な思考に絡みつき離れてくれない。


 ……そもそも、『俺』は誰なのだろうか?

 周りにあるのは、相も変わらず暗闇だけだ。


 ふと、ある考えが頭の中に浮かんだ。

 それは『俺』が、『この闇そのものなのではないか』という考えだ。

 あまりに唐突で、馬鹿げた考えに苦笑しようと試みるも、声にはならない。


 寒気がした。

 同時に、やはり、とも思う。


 だってそうだろう。

『俺』がもしも、この泥のような闇であるならば。

 声を発することも、身動きすることも、叶わなくて当然だからだ。


 そう考えたの瞬間、漠然とした不安が冷たい悪寒へと変じた。


 ひりつくような焦燥感に駆られるも、どうすることも出来ない。

 最初のうちはまだあった、もがいているという手応えさえない。

 あるのは、意味のわからない話し声だけだった。

 そしてそれもいつの間にか、どんどんと遠ざかっていってしまっている。


 言い様のない恐怖が、心の中で渦巻き始めた。


 怖かった。

 自分が何者なのかが、わからない。

 生きているのか、死んでいるのか。それすらもわからない。

 存在することに、なんの意味もないのかもしれない。

 そのことがどうしようもなく、泣きたいほどに怖かった。


 そこに、なにかが届いてきた。


「――」


 先ほどまでとは違う、若い女性の声だった。

 相変わらずなにを言っているのかは、まるでわからない。

 しかしそれが……彼女の発した言葉が、こちらに向けたものであるということだけは、何故だかはっきりとわかった。


 縋りつくように、『俺』は意識のすべてを女性の声へと傾ける。


「――ム」 


 すると、彼女の言葉が形をもった。

 同時にそれが、自分と歳近い、少女のものだとわかる。

 自分と近いという、なんともおぼろげで……しかしそれまでになかった、記憶に付随する感覚。


 ……そうだ。

『俺』はこの声を知っている。

 それも、つい最近のことだ。

 生まれ育ったあの森で出会った、ひとり・・・の少女。


「……ラム!」 


 今度の声は、すぐ近くからやってきた。

 近く。

 つまりは『俺』の耳元だ。

 鼓膜が揺らされる感触に、背筋に震えが走った。


 それはもう、怖れからきたものではない。

 それは全身を駆け抜ける、歓喜の戦慄わななきからきたものだ。

 己が確固たる肉の器を持ち、生を得ているという、痺れるほどの強烈な実感だ。


 意識が急激に、覚醒を開始する。

 鉛のように重く纏わりついていた闇が、逃げ去るようにどこかに離れてゆく。

 しかし、最後の最後。

 全身に覆いかぶさっていた粘着く靄が、自由を得ることを邪魔していた。


 もう少しだ。

 なのに、そのもう少しがどうにもならない。

 再び押し寄せてきた強烈な、睡魔にも似た虚脱感に歯を食いしばるも、瞼を持ち上げることが叶わない。


 やはり、無理なのか。

 どれだけ努力しようとも、叶わないのだろうか。

 すべてが無意味で、徒労に終わるだけなのだろうか。

 己が目指した何者かに……『俺』は決して、なれないのだろうか。


 煌々と燃え盛る赤色に、真っ黒に煤けた『俺』が憧れるなど。

 烏滸がましいだけの、愚かな行いだったのだろうか。

 記憶中で遠ざかる長く美しい真っ赤な髪に、すべてを諦めかけた、その瞬間。


 再び、少女の叫び声がやってきた。


「――フラム!」


 耳元どころか、耳たぶに直接叩きつけられてきたその声に、すべてが形を持ち始める。


 浮上する。

 意識が浮上する。

 だが、どこへ?

 何者でもない『俺』は、どこへ行けばいい?


 ……そんなことは決まりきっていた。

 考えるまでもなかった。

 いまの『俺』は、彼女の下へと戻ればいい。


「目を覚ましてください。どうか、目を覚まして……あぁ、もう! いい加減、起きなさいって言ってるでしょう、この、無鉄砲暴走男!」 


 ついにはこちらをどやしつけてきた、少女の声には苦笑いを浮かべながら。

 俺ことフラム・アルバレットは、神殿従士の少女フェレシーラ・シェットフレンと顔を合わせるべく、意識を解放させていった。


 そこにきっと、己の成すべことがあると信じて……



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