辺りに闇が満ちていた。
己がどこにいて、瞼が開かれているのかさえもわからない。
いや……それどころか、自分に体があるのかすらも知覚出来ない。
重く息苦しさに満ちた、粘りつくような闇だ。
一体いつからこうしていたのだろうか。
つい先程まで、誰かと言葉を交わしていたような。
……もうずっと、独りでこうしていたような。
そんな判然としない感覚に沈んでいると、どこからか声がやってきた。
声。
複数の声。
聞き覚えのある男女の声だ。
その出処を探ろうと、闇の中でもがく。
しかし、上下左右、自分がどこを見ているかもわからない。
なにせ辺りは完全な闇なのだ。
目で探すのは無駄に思えた。
となれば、耳を澄ますしかないだろう。
幸い、なのだろうか。
辺りでは彼らの話し声以外、なんの音もしていない。
不要な知覚を切り捨て音を聞くことのみに集中してみる。
するとこちらに届いてきていた声が、一気にその音量を増してきた。
「――!」
先に聞こえてきたのは、女性の声。
無明の闇に朗々と響く、威厳に満ちた力強い声だ。
「……、……」
続いてやってきたのは、落ち着いた雰囲気の男性の声。
こちらはなにやら、諭すような口ぶりだが……
しかしそのどちらも、意味のあるものとしては聞こえてはこなかった。
間近で交わされる声に、『俺』は戸惑う。
なにか、大事なことを忘れてしまっている気がしたからだ。
自分はこんなところにいる場合ではない。
自分には、なにかやるべきことがあった気がする。
だがしかし、それが一体なんなのかが、まったくわからない。
澱んだ闇がもたらすぬるま湯の如き感触が、緩慢な思考に絡みつき離れてくれない。
……そもそも、『俺』は誰なのだろうか?
周りにあるのは、相も変わらず暗闇だけだ。
ふと、ある考えが頭の中に浮かんだ。
それは『俺』が、『この闇そのものなのではないか』という考えだ。
あまりに唐突で、馬鹿げた考えに苦笑しようと試みるも、声にはならない。
寒気がした。
同時に、やはり、とも思う。
だってそうだろう。
『俺』がもしも、この泥のような闇であるならば。
声を発することも、身動きすることも、叶わなくて当然だからだ。
そう考えたの瞬間、漠然とした不安が冷たい悪寒へと変じた。
ひりつくような焦燥感に駆られるも、どうすることも出来ない。
最初のうちはまだあった、もがいているという手応えさえない。
あるのは、意味のわからない話し声だけだった。
そしてそれもいつの間にか、どんどんと遠ざかっていってしまっている。
言い様のない恐怖が、心の中で渦巻き始めた。
怖かった。
自分が何者なのかが、わからない。
生きているのか、死んでいるのか。それすらもわからない。
存在することに、なんの意味もないのかもしれない。
そのことがどうしようもなく、泣きたいほどに怖かった。
そこに、なにかが届いてきた。
「――」
先ほどまでとは違う、若い女性の声だった。
相変わらずなにを言っているのかは、まるでわからない。
しかしそれが……彼女の発した言葉が、こちらに向けたものであるということだけは、何故だかはっきりとわかった。
縋りつくように、『俺』は意識のすべてを女性の声へと傾ける。
「――ム」
すると、彼女の言葉が形をもった。
同時にそれが、自分と歳近い、少女のものだとわかる。
自分と近いという、なんともおぼろげで……しかしそれまでになかった、記憶に付随する感覚。
……そうだ。
『俺』はこの声を知っている。
それも、つい最近のことだ。
生まれ育ったあの森で出会った、
「……ラム!」
今度の声は、すぐ近くからやってきた。
近く。
つまりは『俺』の耳元だ。
鼓膜が揺らされる感触に、背筋に震えが走った。
それはもう、怖れからきたものではない。
それは全身を駆け抜ける、歓喜の
己が確固たる肉の器を持ち、生を得ているという、痺れるほどの強烈な実感だ。
意識が急激に、覚醒を開始する。
鉛のように重く纏わりついていた闇が、逃げ去るようにどこかに離れてゆく。
しかし、最後の最後。
全身に覆いかぶさっていた粘着く靄が、自由を得ることを邪魔していた。
もう少しだ。
なのに、そのもう少しがどうにもならない。
再び押し寄せてきた強烈な、睡魔にも似た虚脱感に歯を食いしばるも、瞼を持ち上げることが叶わない。
やはり、無理なのか。
どれだけ努力しようとも、叶わないのだろうか。
すべてが無意味で、徒労に終わるだけなのだろうか。
己が目指した何者かに……『俺』は決して、なれないのだろうか。
煌々と燃え盛る赤色に、真っ黒に煤けた『俺』が憧れるなど。
烏滸がましいだけの、愚かな行いだったのだろうか。
記憶中で遠ざかる長く美しい真っ赤な髪に、すべてを諦めかけた、その瞬間。
再び、少女の叫び声がやってきた。
「――フラム!」
耳元どころか、耳たぶに直接叩きつけられてきたその声に、すべてが形を持ち始める。
浮上する。
意識が浮上する。
だが、どこへ?
何者でもない『俺』は、どこへ行けばいい?
……そんなことは決まりきっていた。
考えるまでもなかった。
いまの『俺』は、彼女の下へと戻ればいい。
「目を覚ましてください。どうか、目を覚まして……あぁ、もう! いい加減、起きなさいって言ってるでしょう、この、無鉄砲暴走男!」
ついにはこちらをどやしつけてきた、少女の声には苦笑いを浮かべながら。
俺ことフラム・アルバレットは、神殿従士の少女フェレシーラ・シェットフレンと顔を合わせるべく、意識を解放させていった。
そこにきっと、己の成すべことがあると信じて……