「フェレシーラは……!」
遅まきながら俺は頭を巡らせて、状況の再確認へと移行する。
場所は滝壺の中……正確には、その裏側だ。
大の大人が同時に四人は通れそうなほどに、ぽっかりと開いた洞窟の入口だ。
そこで俺と影人が縺れ合っている。
それ以外のことは、わからない。
というか、目に入れる余裕が欠片もない。
無理に洞窟内の様子を探ろうとすれば、影人に自由を与える可能性が高かった。
なので、それはやるべきではない。
今優先すべきことは、とにもかくにもピィピィと喚くチビを守り抜く。
それだけだった。
それが出来なければ、こんな真似を仕出かした意味もなくなってしまう。
目の前で倒れてしまった彼女の想いを叶えてやることだけが、今の俺の目的だった。
それを馬鹿げているとは思わない。
だが、またも付き合わせてしまった、という想いだけはある。
背後から時折やってくる光の瞬きに、俺は心の中で詫び続ける。
それはフェレシーラが、今も人型の群れと交戦している証左に他ならない。
おそらくは影人が、足止め用の人型を今も生み出し続けているのだろう。
「くそっ……!」
それを理解したところで、俺には腕に力を籠めたまま歯ぎしりすることしか出来ない。
今更ながら、揉み合いに強い短剣を手放していたことが悔やまれた。
一瞬、両の手に視線が行くが……それも諦めるしかなかった。
手甲の力を用いた疑似的な術法の行使には、まだ自信がなかったからだ。
影人を倒すだけの出力を捻出する。
その上で、雛を巻き込まないように範囲を絞る。
それを両立するだけのアトマのコントロールを、取っ組み合いの真っ最中にやってのける。
そんなことが、今の俺に出来るとは到底思えなかった。
例え万全の状態であったとしても、最初の二つを満たすことすら難しいだろう。
つまり今の俺には、状況を打開する術がまったく見当たらなかった。
「くそっ、こんなことなら……首にでも、しがみ付いとけよ……! ほんと馬鹿だな、俺ぇ……!」
「グ、ガァッ……!」
せめてもの抵抗とばかりに両腕を締めつけると、激しい抵抗が跳ね返ってきた。
「でも……こうしていれば、お前も手詰まりだ!」
ざまあみろと吐き捨てて、俺は腕に籠める力を一層と強めた。
今の俺には、これぐらいのことしか出来ない。
出来ないが……こちらには幸い、フェレシーラという心強い味方がいる。
影人が囮の為に分裂体を産み出そうとも、それが衰える兆候は既に見て取れていた。
ゆえに今の俺に出来る最善の手は、こうして時間稼ぎに徹することだと断言出来る。
無闇に手甲の力に頼る必要はない。
どれだけ影人が暴れようとも、こっちはこのまま――
「――え?」
このままこいつを羽交い絞めにしておけばよい、と。
そう結論付けたところで、それは起こり始めていた。
「グ、オ、ァ……ギ、グゥ……!」
気づけば、濁った獣声と共に腕の中の抵抗が増し始めていた。
「こ、のぉ……おとなしく、しやがれ……!」
それを俺は悪足掻きだと決めつけて、押さえ込もうとする。
すると影人の肩に触れていた顎下へと、何かが押し付けられてきた。
硬いゴツゴツとした、だがそれまで感じていた地肌とは異なる、奇妙な滑らかさ。
それに顎がグイグイと押されてゆき、横向きにさせられる。
突然の、しかし初めてではない影人の変容。
「くっそ……こい、つ……またかよっ!」
その変化に巨人化した影人の姿を想起させられて、焦りの声があがる。
あれだけのダメージを受けた上、分裂体まで乱造したというのに……こいつはまだそれだけの余力を残しているというのか。
ならば、迷っている余裕など何処にもない。
リスクを冒してでも、手甲を介しての攻撃魔術でダメージを入れておくべきだ。
不可能となりつつある最善を捨てて、可能な次善を取るべきだ。
「カッ……」
その選択を嘲笑うように、腕の中のそいつが声をあげてきた。
続けて、頬に当たっていた何かが大きく膨れ上がり始める。
急速に体積を増してゆくそれに、こちらの胸部が圧迫されてゆく。
「カカ、カカカカカ……!」
嘲笑が、洞窟中へと反響してゆく。
影人がこちらを振り返る。
「な――」
その姿に、俺は絶句していた。
見れば無貌であったそいつの顔には、一対の瞳があった。
だがそれは、それまでの影人が備えていたヒトのものではない。
それは、獣の目だった。
レモンイエローの眼球の中心に黒点を浮かべた、獣の目。
それがこちらをギラリと睨み、犬歯を剥き出しにして笑みを見せていた。
その影人の体から、淡い輝きが発せられる。
獣の目に、四肢に、力が宿り始める。
翡翠色の燐光を立ち昇らせて、耳障りな笑い声をあげるその姿に。
明らかに巨人化とは異なるその異様に、怖気が走る。
「おま、え」
背筋を駆け抜ける、吐き気を伴う悪寒。
このままでは危険だ。
今すぐこいつから距離を取れ。
影人に対して力負けしているという現実と、未知の事象に対する怖れから、理性が警鐘を鳴らしてくる。
だが俺は、それに従うことが出来ずにいた。
先程から頬骨に押し付けられてきていた茶褐色の物体が、そうさせてはくれなかった。
こちらの眼前にまでせり上がってきたそれが、見覚えのあるものだったからだ。
「おま、え……それは、お前が……っ」
同時に、胸の奥から沸々とした感情が湧き上がってくる。
目の前の影人が放つ翡翠色の燐光。
アトマを吸い上げたというフェレシーラの推測。
鬱蒼たる森の中天を飛翔していた幻獣の、最期の姿。
それらが次々と頭の中で混じりあい、一つの結論となった瞬間に。
「それは……それは、お前のモノじゃねえんだよ! この、糞野郎!」
俺は叫んでいた。
「返せよ……!」
既に上半身をグリフォンのそれへと変容させていた影人に向けて、俺は叫ぶ。
それは、怒りの声だった。
しかし同時に、疑問も湧き上がってくる。
爪を突き立て、殺傷した対象の姿を模倣、もしくは複製する。
そうした一連の事象を見るに、髪も瞳もない影人は『素体』とでもいうべき代物なのだろう。
ならば影人が、そうして吸い上げたアトマを元に変容するというのならば。
何故今までの影人は、あんな姿をして――
「どうでも! いいんだよ! 今は! そんなことは!」
「カカカ、カカ……ッ!」
加速的に力を増す影人を相手に、俺は尚も叫ぶ。
肩が大きく押され、脚が乱暴に蹴飛ばされて、後頭部が岩壁へと擦り付けられる。
痛みが、全身のそこかしこからやってくる。
耳元ではピィピィという、小さく、不安げな声。
負けるわけにはいかなかった。
何としてでも、何に変えてもこの盗人を自由にさせてやる気はなかった。
だがしかし、そんな俺の決意も虚しく影人の勢いは増してゆく。
「カカカ……ケェーッ!」
「ぐっ!?」
焦げ茶の羽根が肩から抜け出て、バサリとはためいた。
その衝撃に抗しきれず、俺は仰向けの体勢で地面に押し付けられる。
自由となった影人の腕が、鉤爪が、己が胴を捉えていた非力な男の下腕へと喰い込む。
鋭い痛みがあり、それはこちらの肘を伝い脳にまで響いてきた。
「ぐ、ぎ……!」
岩壁と両腕。
中と外からやってくる激痛に、情けなくも悲鳴があがる。
限界だ。逃げられる。
こんなヤツを逃がしてしまう。仇も討てずに、終わってしまう。
頭の中が悔しさと諦めで一杯になる。
――そこに、濡れた砂利土を蹴り飛ばす音がやってきた。
それまで幾度となく耳にしていたその音に、頭の中に巣食っていた闇が祓われてゆく。
敷き詰められていた絶望を、真っ白なブーツが蹴散らしにかかってきた。
「――フェレシーラ!」
「お待たせ! それでもって、そのまま!」
駆けながらの一声に、俺は戦槌を握りしめる少女の姿を幻視する。
目の前には、相も変わらず暴れまわる糞野郎。
頭の中に残るのは、刺すような痛み。
「どっちも――」
それをまとめて殴りつけるつもりで、両の拳に意思を乗せて。
「止まってろ!!」
俺は手甲の力で以て、影人を縛り付けていた。
「カカ――ガカッ!?」
不意に腹部へとやってきた締め付けに、影人が全身を跳ね回らせる。
俺は動かない。
既に感覚の麻痺した腕がミシミシと骨の軋む音を立てるも、意地でも動いてはやらない。
影人の頬が大きく膨らむ。
乱杭歯を覗かせたその奥に、逆巻く翡翠の輝きが灯る。
それを俺が、何らかの攻撃の予兆だと捉えた瞬間に――
「聖伐の浄撃よ!」
横合いからやってきた光槌の一閃が、偽鳥の頭部へと叩き込まれた。