あれは一体、いつ頃のことだったか――
『この森にやってくるの魔物たちの多くはね。土地から溢れたアトマに引き寄せられてくるの』
教練の間での訓練に励む俺に、師匠はそんな話をしてくれた。
『強いアトマを秘めた魔物……その中でも、竜族を筆頭とする幻獣種は特にその傾向が強くって。こうして迷いの術法で遠ざけておかないと、彼らの棲家にされてしまいかねないから』
そう言ながら鈍色に光る水晶球を見つめる金と銀の瞳は、どこか物悲しい色をしていた。
そんな彼女に、俺は能天気にも幻獣たちに関する質問を繰り返していた記憶がある。
そうして十一の誕生日を迎えた頃には、師匠から塔の管理を少しずつ任されるようになり……
その中で一度だけ、森にやってきた二匹のグリフォンへの対応を行ったことがあった。
塔自体を基盤とした大型術具を操り、首尾よく彼らを森の外へと追い払った。
それを俺は、誇らしげに胸を張り、彼女に武勇伝として語ったのを憶えている。
恐ろしく強い魔物から、この森を守ったのだと。
自分も師匠のように、立派な魔術士らしく振る舞えたのだと。
そんな風にはしゃぐ俺を、師匠は抱きしめてきた。
褒めるでも、窘めるでもなく……ただつよく、つよく抱きしめてきた。
師匠が俺に魔術以外のことを教え始めたのは、それから暫く経ってからだった……
木々の回廊を抜けると、そこには赤く濡れた剥き出しの
「四方から取り付いて離さず、か……」
前を行くフェレシーラの呟きに、俺は渓流の淵へと身を乗り出す。
一面が血に染まった砂利土の上には、四匹と一頭の骸が横たわっていた。
その奥では、初夏の日差しを照り返して輝く水面がギラギラと、痛いほどに輝いている。
その峻烈さに目を細めながら、俺はそいつの前で立ち尽くしていた。
鋭い鉤爪を備えた前肢と、猫科の猛獣のそれを思わせる、しなやかな後肢。
白頭鷲を思わせる頭部は人のそれよりも遥かに大きく、茶褐色の翼は躍動感に満ちており……しかしその瞳は、濛々と飛沫をあげる滝壺を睨んだまま、再び動くことはなかった。
「こいつが、戦っていたんだな」
恐らくは、取り囲まれた際に最期の力を振り絞ったのだろう。
身体中の至る箇所から血を流し絶息したそいつの真下には、頭部を噛み潰された影人と喉首を引き裂かれた影人とが、折り重なるようにして地に転がっていた。
そしてその後方には、二匹の影人がボロ雑巾の様に倒れ伏している。
幻獣グリフォン。
初めて間近で目にするそれが、如何に強大な力を持ち、如何にして敗れ去ったか。
その今の際を想像して、俺は知らずのうちに瞼を閉じていた。
「影人は、こいつがやっつけちゃったみたいだな」
「ここにいるものは、そうでしょうね」
「……?」
脱力し、漏れ出でた呟きに、そんな言葉が返されてきた。
フェレシーラだった。
「え、と……どういう、意味だ?」
誰がどう見ても、戦いは終わっている。
こいつはわけのわからない化け物の群れを相手に、ただ一頭で立ち向かい、勝利したのだ。
それを否定された気がして、目の前の少女へと問いかける。
そんな俺に、フェレシーラは眼差し鋭くグリフォンの屍を見据えたまま、答えてきた。
「見なさい。この子は、雄よ」
獅子の鬣を睨め付ける彼女の意図を、しかし俺は察するまでに至らない。
いや……正しくは、それ以上考えることを放棄してしまっていたのだろう。
「そしてこの周辺には、グリフォンの羽根が殆ど飛散していなかった。それはこの子が、自分の意思でこの場所に留まって応戦していたという証よ」
そんな俺を非難するでなく、フェレシーラは淡々と続けてきた。
「あれだけ障害物の多い林の中で飛び回っておいて、これだけ開けた河原でそれをしない。それって……おかしいとは思わない?」
疑問を呈する少女の声に押されたように、グリフォンの亡骸が大きく揺らめいた。
「……あ」
目の前を、風が通り過ぎてゆく。
翡翠色をした燐光が、足元から立ち昇ってゆく。
それはなにも、炎天の陽炎が見せた幻などではない。
「――母なるアーマが遣わせし、風のアトマよ……勇敢なる者の魂に、等しく安らぎを与え給え……」
従士の少女の願いをのせたそれは、魂の輝き……アトマの光だった。
その煌めきが、
死して尚、何かを求め彷徨うそれを前にして。
「まあ、何にせよここまで来て――え、ちょっと貴方、なにをいきなり屈み込んで――」
俺は背負っていたナップサックをその場に置き捨てて、重心を低く構えると。
「ちょっと……ちょっとフラム! 待ちなさい! 待ちなさいってば、フラム!」
切羽詰まった制止の声を振り切って、俺は
「ごめん……ごめん、フェレシーラ!」
衝動的に駆け出してしまったことを詫びながらも、脚は止まらない。
右の踵が砂利土を踏み砕き、左の爪先がそれを巻き上げて、猛進してゆく。
「まだ、いるんだ……! 何処かに、いるはずなんだ……!」
グリフォンの亡骸は、上流にある滝壺を見つめていた。
手掛かりともいえない憶測に背を押されて、俺は瀑布の源を目指す。
一歩一歩と駆け進むごとに、落水の音がどんどんと大きさを増してゆく。
立ち込める水飛沫が、濃霧へと変じてゆく。
心臓が、狂ったように早鐘を打っていた。
「くそ……くそ! そんなに、そんなに離れてないはずだろ……!」
走るなら黙って走れ。
無駄なお喋りは控えるべきだ。
心の何処かから、冷静そのものといった声がやってくる。
だが、そんなものは知ったことではない。
フェレシーラは言っていた。
あのグリフォンは、自ら望んで地に降り立ち戦っていたのだと。
優れた飛翔能力を誇るグリフォンにとって、それは自殺行為に等しい。
そして彼らは、決して無駄死になど選ばない。
強大な種であるゆえに、個体数に劣る空の幻獣。
彼らが望んで死地に飛び込むとすれば、理由は一つ。
「絶対に、必ずいるんだ……! あいつの、あいつの番いが――家族が、傍にいるんだ!」
――ピイィ……ッ!
「!」
それは怒号の如き水音に紛れて、微かに響いてきた。
それまで耳にしてきた鳴き声と同じ種の……しかし比べものにならぬほど弱々しいその声に、俺は速度を緩めぬまま視線を巡らせる。
「正面……この、上か!」
急勾配の坂道のその先に、巨大な瀑布が姿を見せ始めていた。
幅数十mはあろうかという、見事な滝だ。
その直下を目指して、俺は丸みを帯びた石段をブーツの爪先で噛むようにして蹴りあがる。
再び世界が開けたのは、数えて七度目となる跳躍の直後だった。
一面の苔むした岩地に続き、それを豪断する水壁が眼前へと現れる。
悠然雄大という言葉などで片付けるには、あまりにも荘厳たる自然の業。
それに一瞬、動くことのみならず呼吸すらも止まりかけてしまう。
そこで俺は見た。
降り注ぐ青と大地の境界にて、砂利土を踏みしめて羽ばたく翼を、俺は目にしていた。