俺はその日、宵闇を疾りゆく流星をみた。
憶えている一番古い記憶は、泣きじゃくる赤い髪の女の子。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
垂れ目がちの大きな瞳いっぱいに、涙を溜めての抱擁。
それが二番目の記憶。
その胸の中で、俺は安らぎと共に眠りについたことを覚えている。
思い返してみれば、俺の師匠……マルゼスさんは、よく泣く人だった。
そして彼女を泣かしていたのは、いつも俺だった。
だが――言い訳をするつもりはないが――それも仕方がなかっただろうと思う。
あの人は、産まれてすぐに母親を失った俺を引き取り、女手一つで育ててくれたのだ。
それもたった十四歳のときから、人里離れた森の奥で。
彼女は優れた魔術士であったが、それと同時に普通の女の子でもあった。
そんな彼女にとって、幼子との日々は悪戦苦闘の毎日だったのだろう。
俺が高熱を出して寝込んでは、付きっきりの看病をして瞳を泣き腫らし。
少し目を離した隙に部屋から迷い出ていけば、涙目となって探しまわり。
物心ついてから俺は、そんな子育てに関する苦労話を幾度となく聞かされた。
まだ幼かった俺は、自らの苦労話を嬉しそうに語る彼女の想いを理解出来ずに……その誇らしげな横顔を、ぽけっと眺めていたものだ。
彼女が真に力ある魔術士だと知ったのは、何度目かの誕生祝いのときだった。
型崩れをした小さめのホールケーキの上に飾り付けられたメッセージプレートに、よれよれの文字で「九歳の誕生日おめでとう」と書かれていたのを、朧気に憶えている。
同時に、彼女が俺の本当の母親ではないことを聞かされたが……
それも当時の俺には、よくわかっていなかった気がする。
ただ、その後に二人で食べたケーキがあまりに苦かったり甘すぎたりしたので、一緒になって大笑いしてすぐに食べきってしまったことだけは、今でも鮮明に思い出せる。
俺があの人の背中を追いかけ始めたのも、その頃からだった。
アトマ文字の読み書きから、算術や暗記術、玩具代わりの術具の取り扱い……
最初の頃は、そういった基礎的な勉学に只管に明け暮れたものだ。
それまで独学で魔術を修めてきた師匠は、子供の俺相手にも根気よく、嫌な顔一つせずに、むしろ嬉々として様々なことを教えてくれた。
朝を迎えれば微笑みと共に目を覚まし、夜が迫ればその
そうした塔での生活が、永遠に続くのだと俺は思っていた。
潮騒のように返されてくる吐息を耳に、俺は記憶の断片を幻視する。
懐かしき微睡の中に身を委ねていると、ふと、それが遠のくのを感じた。
熱が逃げてゆき、支えが失われる。
判然としないその感覚に、悲しいまでの喪失感に、俺は無意識で抗う。
まだ寝ていたい。眠っていたい。
そんな甘ったれた願いも虚しく、意識がぼんやりとした光の輪郭を纏い始める。
瞼を開くと、陽光と水晶光とが入り混じった煌めきが差し込んできた。
その輝きがゆっくりと、正方形の天蓋を埋め尽くしてゆく。
慣れしたんだ木目模様とは明らかに違う、見知らぬ天井。
「……!」
瞬間、俺はその場で身を跳ね起こす。
弾性に満ちたベッドに揺られながら、左右を見渡す。
そうしながらも、俺は既に自身が置かれた状況を思い返すに至っていた。
わかっている。
ここは自分の部屋だった場所ではない。
四方を石材で囲まれた、離れの部屋……
生まれ育った『塔』より追放されてから、初めての夜を明かした場所だ。
それを理解して溜息を吐くと、強い日差しが瞼へと差し込んできた。
朝日にしては矢鱈と目を刺すその光に、思わず顔を顰めてしまう。
光の大元は、2mほどの高さに設けられていた嵌め殺しの窓にあった。
「うあー……まぶっし。目覚まし代わりか、これ……?」
そんなことを口にしながら、ベッドから起き上がる。
すると、窓の向こう側にあった景色が飛び込んできた。
「――」
一瞬、そこで思考が停止する。
窓枠の中には、小さく小さく収まった巨大な緑があった。
その根本には、幅3㎝はあろうかという逞しい幹が見える。
強く、頭を振った。
瞼に焼き付いたその光景が消え去るまで、振り続けた。
どれくらいの間、そうしていただろうか。
ふらつきを覚えてベッドの淵に腰をかけていると、テーブルの上に何かが置かれていることに気が付いた。
白い、三角形に折られた30㎝ほどの刺しゅう入りの覆いが二つ。
布製のナプキンだ。
のろのろとテーブルに近づき、それを捲りあげる。
すると香ばしい匂いが、ふわりと立ち昇ってきた。
ほど良く焼き上げられたパンと、肉の匂いだった。
「おぉ……」
空っぽの頭と胃袋に食欲を刺激する香りを浴びて、無意識に間の抜けた声が口から洩れ出てしまう。
こんがりと焼き目のついたライ麦のパンに、枝豆のポタージュ。
ボウルに盛られたちぎりレタスと、粒マスタードの添えられた薄切り肉。
それを前にして、俺は無言で椅子へと腰を下ろす。
掌を皿の前で合わせて、『承』を行う際の要領で精神を集中させる。
再び、芳しい香りが鼻腔をくすぐってきた。
そこはかとなく青臭さを残す、ポタージュスープの甘い香りだ。
気を張っていられたのは、そこまでだった。
「……いただきます!」
湧き上がってきた食欲に背を押されて、俺は猛然と食事に取り掛かっていた。
「ふぃー……生き返ったー……」
朝食自体は、ものの五分とかからずに終わっていた。
いつの間やら溢したパンクズをナプキンの内側に放り込み、人心地つく。
ほどよく焼かれた薄切り肉は、レタスと共に仄かに酸味のある黒パンに挟んで食すと絶品だった。
朝食にしては量が多めだったが、昨晩は食が進まなかったこともあり、むしろ適量だった。
塩味の効いた枝豆のポタージュは、あらごしで粒の食感も楽しめたこともあり、一滴も残せぬ出来栄えだった。
控えめに言って、最高の
「はふー……美味かったぁ……とくに薄切り肉は、絶妙の厚みと胡椒の塩梅とが……あ、いや。厚みだけじゃなくて、サイズもか。パンにレタスと合わせてほどよく収まるよう……ふむ」
一日の始まり、その象徴ともいえる朝食に込められた心遣い。
その細やかな気配りに感謝を込めて、俺は残るマスタードの粒を指の腹で掬い取り、ペロリと綺麗に舐めとった。
「うーん。これは見習いたいぐらいだな……昨日調理してくれた人とは、別の人が――ん?」
そうして食事の締めを行う最中、ふと、皿の下に何かが敷かれていることに気がついた。
なんだこれ……メモ、か?
コップに注いだ水をごきゅごきゅと飲み干しながら、その紙片を裏返す。
すると――
「食べ終わったらすぐに着替えて、井戸の裏手にある庭にくること」
そこには、昨晩見たばかりの筆跡が残されていた。