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第20話 流星、宵闇を疾り去り

 俺はその日、宵闇を疾りゆく流星をみた。




 憶えている一番古い記憶は、泣きじゃくる赤い髪の女の子。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 垂れ目がちの大きな瞳いっぱいに、涙を溜めての抱擁。

 それが二番目の記憶。

 その胸の中で、俺は安らぎと共に眠りについたことを覚えている。


 思い返してみれば、俺の師匠……マルゼスさんは、よく泣く人だった。

 そして彼女を泣かしていたのは、いつも俺だった。


 だが――言い訳をするつもりはないが――それも仕方がなかっただろうと思う。


 あの人は、産まれてすぐに母親を失った俺を引き取り、女手一つで育ててくれたのだ。

 それもたった十四歳のときから、人里離れた森の奥で。


 彼女は優れた魔術士であったが、それと同時に普通の女の子でもあった。

 そんな彼女にとって、幼子との日々は悪戦苦闘の毎日だったのだろう。


 俺が高熱を出して寝込んでは、付きっきりの看病をして瞳を泣き腫らし。

 少し目を離した隙に部屋から迷い出ていけば、涙目となって探しまわり。


 物心ついてから俺は、そんな子育てに関する苦労話を幾度となく聞かされた。

 まだ幼かった俺は、自らの苦労話を嬉しそうに語る彼女の想いを理解出来ずに……その誇らしげな横顔を、ぽけっと眺めていたものだ。


 彼女が真に力ある魔術士だと知ったのは、何度目かの誕生祝いのときだった。


 型崩れをした小さめのホールケーキの上に飾り付けられたメッセージプレートに、よれよれの文字で「九歳の誕生日おめでとう」と書かれていたのを、朧気に憶えている。

 同時に、彼女が俺の本当の母親ではないことを聞かされたが……

 それも当時の俺には、よくわかっていなかった気がする。


 ただ、その後に二人で食べたケーキがあまりに苦かったり甘すぎたりしたので、一緒になって大笑いしてすぐに食べきってしまったことだけは、今でも鮮明に思い出せる。


 俺があの人の背中を追いかけ始めたのも、その頃からだった。


 アトマ文字の読み書きから、算術や暗記術、玩具代わりの術具の取り扱い……

 最初の頃は、そういった基礎的な勉学に只管に明け暮れたものだ。


 それまで独学で魔術を修めてきた師匠は、子供の俺相手にも根気よく、嫌な顔一つせずに、むしろ嬉々として様々なことを教えてくれた。


 朝を迎えれば微笑みと共に目を覚まし、夜が迫ればそのかいなに抱かれて眠りに落ちる……

 そうした塔での生活が、永遠に続くのだと俺は思っていた。





 潮騒のように返されてくる吐息を耳に、俺は記憶の断片を幻視する。 


 懐かしき微睡の中に身を委ねていると、ふと、それが遠のくのを感じた。

 熱が逃げてゆき、支えが失われる。

 判然としないその感覚に、悲しいまでの喪失感に、俺は無意識で抗う。


 まだ寝ていたい。眠っていたい。

 そんな甘ったれた願いも虚しく、意識がぼんやりとした光の輪郭を纏い始める。


 瞼を開くと、陽光と水晶光とが入り混じった煌めきが差し込んできた。

 その輝きがゆっくりと、正方形の天蓋を埋め尽くしてゆく。

 慣れしたんだ木目模様とは明らかに違う、見知らぬ天井。


「……!」 


 瞬間、俺はその場で身を跳ね起こす。


 弾性に満ちたベッドに揺られながら、左右を見渡す。

 そうしながらも、俺は既に自身が置かれた状況を思い返すに至っていた。


 わかっている。

 ここは自分の部屋だった場所ではない。


 四方を石材で囲まれた、離れの部屋……

 生まれ育った『塔』より追放されてから、初めての夜を明かした場所だ。


 それを理解して溜息を吐くと、強い日差しが瞼へと差し込んできた。

 朝日にしては矢鱈と目を刺すその光に、思わず顔を顰めてしまう。


 光の大元は、2mほどの高さに設けられていた嵌め殺しの窓にあった。


「うあー……まぶっし。目覚まし代わりか、これ……?」 


 そんなことを口にしながら、ベッドから起き上がる。

 すると、窓の向こう側にあった景色が飛び込んできた。


「――」 


 一瞬、そこで思考が停止する。


 窓枠の中には、小さく小さく収まった巨大な緑があった。

 その根本には、幅3㎝はあろうかという逞しい幹が見える。


 強く、頭を振った。

 瞼に焼き付いたその光景が消え去るまで、振り続けた。


 どれくらいの間、そうしていただろうか。

 ふらつきを覚えてベッドの淵に腰をかけていると、テーブルの上に何かが置かれていることに気が付いた。


 白い、三角形に折られた30㎝ほどの刺しゅう入りの覆いが二つ。

 布製のナプキンだ。


 のろのろとテーブルに近づき、それを捲りあげる。

 すると香ばしい匂いが、ふわりと立ち昇ってきた。


 ほど良く焼き上げられたパンと、肉の匂いだった。


「おぉ……」


 空っぽの頭と胃袋に食欲を刺激する香りを浴びて、無意識に間の抜けた声が口から洩れ出てしまう。


 こんがりと焼き目のついたライ麦のパンに、枝豆のポタージュ。

 ボウルに盛られたちぎりレタスと、粒マスタードの添えられた薄切り肉。


 それを前にして、俺は無言で椅子へと腰を下ろす。

 掌を皿の前で合わせて、『承』を行う際の要領で精神を集中させる。


 再び、芳しい香りが鼻腔をくすぐってきた。

 そこはかとなく青臭さを残す、ポタージュスープの甘い香りだ。

 気を張っていられたのは、そこまでだった。


「……いただきます!」


 湧き上がってきた食欲に背を押されて、俺は猛然と食事に取り掛かっていた。 





「ふぃー……生き返ったー……」


 朝食自体は、ものの五分とかからずに終わっていた。

 いつの間やら溢したパンクズをナプキンの内側に放り込み、人心地つく。


 ほどよく焼かれた薄切り肉は、レタスと共に仄かに酸味のある黒パンに挟んで食すと絶品だった。 

 朝食にしては量が多めだったが、昨晩は食が進まなかったこともあり、むしろ適量だった。

 塩味の効いた枝豆のポタージュは、あらごしで粒の食感も楽しめたこともあり、一滴も残せぬ出来栄えだった。


 控えめに言って、最高の朝食モーニングだった。 


「はふー……美味かったぁ……とくに薄切り肉は、絶妙の厚みと胡椒の塩梅とが……あ、いや。厚みだけじゃなくて、サイズもか。パンにレタスと合わせてほどよく収まるよう……ふむ」 


 一日の始まり、その象徴ともいえる朝食に込められた心遣い。


 その細やかな気配りに感謝を込めて、俺は残るマスタードの粒を指の腹で掬い取り、ペロリと綺麗に舐めとった。


「うーん。これは見習いたいぐらいだな……昨日調理してくれた人とは、別の人が――ん?」


 そうして食事の締めを行う最中、ふと、皿の下に何かが敷かれていることに気がついた。


 なんだこれ……メモ、か?


 コップに注いだ水をごきゅごきゅと飲み干しながら、その紙片を裏返す。

 すると―― 


「食べ終わったらすぐに着替えて、井戸の裏手にある庭にくること」


 そこには、昨晩見たばかりの筆跡が残されていた。 



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