木漏れ日すら通さぬ樹群の枝葉が、不意にザァと揺れた。
「本当にここで宜しいのですね。マルゼス殿」
幌馬車の真新しい手綱を手に、灰色の外套に身を包んだ男が言葉を発してきた。
「はい。この地しかありえません。それが私たちの望みです」
切り立った断崖の根本に伸びた細道。
鬱蒼と茂る山森の入口、その山裾で歩みを止めた幌馬車の中より、少女の声が返されてくる。
「御意。とはいえ……救国の英雄である貴女が所望したとあれば、噂は立つ。隠棲とまではゆかぬでしょうな」
「今日は随分と饒舌ですね。ぺルゼルート」
「失敬。あまり隠し事の類は得意ではなさそうでしたので、老婆心がしゃしゃり出てしまったようだ。お赦しいただきたい」
「気にしてはいません。見た目で侮られるのは慣れています」
感情を交えぬ声と共に、馬車の後部から彼女は地へと降り立った。
血の様に紅い、真紅の礼装が風に靡く。
目深にかぶった鍔付きの三角帽に、古木の杖。
髪は長く、それもまた赤い。
瞳は
魔女。
誰もが一目見て、その言葉を連想する
その容貌は美しく整っているが……全体的な線は細く、小柄で表情も乏しい。
それがどこか、見るものに醒めた印象を与えてくる。
そんな少女だ。
近年、中央大陸の西に興されたレゼノーヴァ公国の救世主。
魔人殺しの英雄、『
公国においてはその名を知らぬ者無き少女へと、御者の男が声をかけた。
「今年で十五でしたかな」
「……? ああ、私の年齢ですか。確かにもうすぐそうですが。どうも貴方は、話が唐突ですね」
「妻によく言われます。悪癖ですが、三十路前ともなるとそうそう直せませんな。はっはっは」
からからと笑う男を一瞥して、少女が馬車の席へと視線を向けた。
「着きました。いい加減、返して欲しいのですが……」
「おとうさま!」
困り顔となった少女の要求を遮り、舌ったらずな叫び声――幼い女の子の声が森に響き渡った。
「やっぱりこの子、みえない! とーめいなの! おねーさんのはみようとしなくても、まっかっかですごいのに!」
「はあ……姉と弟に見えるのでカモフラージュになるという、貴方の言葉に騙されました。四歳近くともなれば、ここまで活発なものなのですね。責任を持ってどうにかしてください、ぺルゼルート」
「仰せのままに。こちらに来なさい、フェレス。その子を落とさないように、そーっとね」
「おとさないように、おとさないように……はい、わかりました!」
男の声に、馬車の荷台がごそりと揺れる。
間を置かず、なにかを抱えた女の子が革靴の底で赤土を踏み鳴らしてきた。
ゆるくウェーブのかかった亜麻色の髪に、ぱっちりとした青く愛らしい瞳。
少し着られている感のある、丈の合わない白い法衣に身を包んだ幼い少女だ。
腕の中には、絹布に包まれた赤子がしっかりと抱えられている。
「やっぱり、この子だけみえない……おねえさん のは、おめめ閉じててもみえるのに」
「あまりそうやって、
うんざりといった口振りながらも、この小さな魔女は女の子の手から赤子を奪えずにいる。
都を離れての道中、赤子がずっと静かに眠っていたので、それを邪魔したくなかったからだ。
「しかし困りましたな。ここから先は馬車も通れそうにない。乳母に続いて、そろそろ我々もお別れの時間でしょうか」
「いいえ。空を行くと目立つ上に飛行型の魔物も寄ってきます。なので、このまま古代樹を目指しましょう。貴方はそのまま御者役を」
「ふむ。方角はこの崖の向こうでしたか。地図上も、見たところも、まともに走れる道があるとも思えませんが」
「ああ。そんなこと」
然して困る風でもなく断崖を見上げた男に、これまたこともなげな声が返される。
「少し、さがっていてください」
「――フェレス。こちらに来なさい。その子を連れて、すぐにね」
「? はぁい、おとうさま……!」
男の呼びかけに、女の子が小走りとなる。
「原初の
その背後にて、あがる厳かな詠じの声。
呪文の詠唱。
術法式の構築。
魔女を魔女たらしめる、その御業。
集約された魂の力――
「マルゼス殿……!」
男が叫び、膝元にきていた女の子を赤子ごと抱きしめた、その瞬間――
彼女が突き出した杖の先端より、火線の帯が放たれた。
「くっ――」
まばゆい閃光、火の煌めきがすべてを呑み込む。
熱波に煽られた若木が、燃えあがることすら叶わず焦がれ飛ぶ。
火線がその輝きを際限なく増し続け、古木の杖が軋みの音を立ててゆき――
「これは……なんと」
再び男が前方を直視したときには、行く手を遮っていた断崖の一端が跡形もなく消し飛ばされていた。
「これで目的地まで進めるでしょう」
「道がなければ作ればよい、とでも言いたげですが……山火事にでもなればどうされるおつもりですか。それにこんな道を馬が通ってくれるかどうか、確約出来ませんな」
顔色一つ変えずに言い放ってきたマルゼスに、男が渋い表情で応じる。
「その時は、雨雲を呼んで鎮火するのみです。それではいきましょう。地面の冷却は随時こちらでしておきます」
「……どうやら貴女は一度、目立たない、という言葉の意味を調べたほうが良さそうだ」
目立ちたくないというわりに、赤一色のローブのまま都から遠く離れた東端の森までやってきたのだ。
やることなすこと、どう考えても矛盾している。
そんな常識知らず魔女が伴う赤子の護衛役と、水先案内人を同時にこなせる。
その条件を満たしていたこともあり、男は今回の任に就いていた。
なお、その際この小さな魔女は口の堅さを条件に入れてこなかった。
そのせいでこの件に関わった一部の人間は、「事が終われば用済み扱いで消されるのでは」と震えあがっていたが……男の見解では、その可能性は限りなく低かった。
単純に、人を疑うことを知らない。
もしくは、知る機会すらなかった。
きっとそのどちらかであり、そして自分たちはそんな少女のお陰で生き永らえたのだ。
「おとうさま! みて、みて!」
複雑な想いに駆られる男の膝元で、女の子が声をあげてきた。
それにつられて、マルゼスも振り向いてくる。
「ああ。驚かせてしまったね、フェレス。今度はなんだい?」
「うん! いまね、まっかになったの! この子、ぴかってまわりが光ったら――あれ?」
「……!」
そのやり取りに、小さな魔女が息を呑む。
つかつかと歩を進めて、そのまま赤子の顔を覗き込む。
「いま、なにか『視えた』のですか。この子から」
「うん……でも、またきえちゃった……あっ! みて、おねーさん! おきてるよ、この子おきてる!」
「それは……見ればわかります」
己が腕の中で、ぱちりと目を開いていた赤子をみて、女の子が興奮気味となりそれを訴えてきた。
錆色の瞳が、魔女と女の子とを交互に見つめる。
それを受けた二人が、赤子にぐいと顔を近づけた。
「……あの、どいてくれませんか。いまこの子、私を見ていたんですけど」
「ちがうよ! わたし! この子、わたしのことみてたもん! おねえさんは、あとからだったもん!」
「……へぇ」
赤子を抱えて引き下がろうとしない女の子に、魔女が無言でその場を離れていった。
「どこへ行かれるおつもりですか、マルゼス殿」
「馬が嫌がるかも、と言いましたね」
「……まさか」
振り向きもせず返された言葉に、男が身構え、即座に呪文の詠唱を開始する。
守りの術法『防壁』の神術――その実行へと移る。
魔女が手にした杖を無造作に投げ捨てる。
長く赤い髪が不可視の力の波濤に揺らめきながら、その色合いを銀に染めてゆく。
金と銀の瞳が、赤と青へと変じてゆく。
先ほどの『熱線』の負荷に悲鳴を上げていた古木の杖が、地に転がり罅割れるよりも疾く――
「護りの盾、阻みの祈りよ!」
男が眼前に光の壁を打ち立てた瞬間に、再びの『熱線』が場に吹き荒れた。
「きゃ……!」
「ぬぅ!」
鳴動する『防壁』の内より子供たちを抱えて、男が唸る。
魔女が放った今度のそれは、詠唱もなければ杖の補助もない。
あるのは、圧倒的な術者自身の力だけだった。
吹き荒れる火の暴威。
魑魅魍魎の棲家、無人無法の森として畏れられるその深奥へと向けて、破壊の力が叩きつけられる。
「目的である古代樹のことをお忘れか、『煌炎の魔女』よ!」
このままでは後ろにいる自分たちにまで累が及びかねない。
そう思いながらも、男は諫めの叫びをあげるのが精一杯の有様だった。
だが、それで『防壁』の震えがピタリと止んだ。
「そういえば」
完全に失念していたと言わんばかりの呟きと共に、魔女が振り向いてきた。
既に彼女の髪は元の赤色へと戻っている。
「危ないところでした。うん、まだありますね。この先に、古代樹のアトマを感じます。警告感謝です、ぺルゼルート」
勘弁してくれ。
普段であれば内心であっても決して用いぬ口調で、男が息を吐く。
つい今の今まで、「断崖であった平地」を見て、彼は盛大に溜息をついていた。
「道に不安があると言ったからですか」
「いえ、それはもう物のついでという奴です」
満足げに踵を返してきた魔女に、男が眉根を寄せて訝しむ。
一体どんな理由があれば、ここまでの真似をしでかせるというのか。
ふと、男の脳裏を「ある噂」が掠めた。
今より二年前に端を発し、既に終息を迎えていた魔人との戦い。
『第一次魔人聖伐行』において、各地に出没していたとされる人物の噂。
道に倒れ伏した一人の少女を救うためだけに、群がる魔人をその巣窟と化していた砦ごと猛火の海に沈めた『真紅の魔女』の存在。
(民草は苦難の中にあっては、救い主たる英雄を求め続けるものではあるが……)
噂は噂と聞き流していたが、どうやらそれは間違いであったらしい。
尾ひれがつくどころではなく、まるで足りていなかったようだ。
とはいえ、どの道それを他者に喧伝できる立場でもない。
涼しい顔で舞い戻ってきた少女を前に、男は心を無にして天を見上げるのみだった。
「あー……あうえう!」
「どうですか、フェレス」
あがる嬉しげな赤子の声。
それを見て、小さな魔女マルゼスが「ふふん」と鼻を鳴らしてきた。
その視線の先いたのは、キャッキャッと喜ぶ赤子を抱えたまま、ぽかんと口を開きっぱなしにした女の子。
「うん。わたしの方をみていますね。ではぺルゼルート、先を急ぎましょう」
「……御意」
フェレスに外の世界を見せてやろうと自らの意志で旅の計画を立てた男だったが……ここにきてそれは過ちであったかもしれない、とも思い始めていた。
そもそも国を救った者が望むのが、人里離れた魔境のでの隠棲という時点で余人には理解し難い。
古代樹の中に居を構えるとのことだったが、この分では前途は多難どころの話ではないだろう。
だがそれも、既に乗りかかった舟という奴だ。
上機嫌で幌馬車に乗り込む小さな魔女と赤子を眺めつつ、
「よーしよし。これからは私が一緒ですからね……フラム」
びーびーと泣き叫び始めた女の子を御者台で抱えながら彼が考えていたのは、最早「馬がびびって逃げ出さなくて良かった」ということだけだった……
『君を探して 白羽根の聖女と封じの炎』前日譚
隠者の塔にて - 少年と魔女 - に続く