「なかじまきよが」という人の絵が飾ってあった。祖母の家にはところどころに絵が飾ってある。とんとんと優しく触れたようなタッチで、色鮮やかで、日常の何気ないカットを絵にしたような、見ているものを不思議な気持ちにさせる絵である。後々調べると、それは「中島潔」さんという方の作品であった。中島潔画と書いてあったもので、恥ずかしながら勘違いをしていた。
その日ぼくは、とある事情で祖母の家に丸一日いた。というのも厳密にいえば、ここ三日間ほど、祖母の家と自宅を行き来しているのである。それには多少なりとも複雑なわけがあった。
まずおじいちゃんの存在である。ぼくは小さなころからこの祖母の家へ時折お邪魔し、おばあちゃんとおじいちゃん、そして母の姉と会っていた。ぼくはどちらかというシャイな少年だったから、おそらく気難しい子供なんて思われていたかもしれないけど、彼らはそんなぼくを受け入れてくれたやさしい人たちである。その中でもおじいちゃんはぼくが自慢する家族で、もともと書店を経営し、雑誌配達を請け負う仕事をしていた。人当たりもよく、様々な人に好かれていることは見て取れたし、市内から市外(ときどきだけど)と広い範囲で配達を行っていた。おじいちゃんの書店は落ち着く場所だった。お店に入ると左側にカウンターがあり、そこのレジで幼いころはよく遊んだ記憶がある。木造の棚に飾られる雑誌、漫画や小説は当時のぼくにとって難しいものだったけども、その色とりどりの世界は、幼いぼくに心温かい環境を提供していた。となりの建物には駄菓子屋があり、時たま、おじいちゃんが駄菓子屋にぼくを連れて行ってくれた。ぼくは喜んでグミを買ったて立ち食いしたりスナックを弟と分けて食べた、おじいちゃんが野菜を育てている書店の裏手にいき、そこでヘチマをみながら食べたのは、今でも覚えている。(そのな書店も後述するおじいちゃんの事情から、いまでは廃業し建物がなくなってしまった)
そんなおじいちゃんも今や八十近い。ボケてしまったのは、もう三年くらい前だったように覚えている。
おばあちゃんは元気な人だった。冗談がうまく品のあるように見受けられ、ご近所付きあいも上手である。ただ品があるといったものの、深く関われば彼女は人情があふれている人であると気が付くことができる。お茶目な一面もあり、厳しく育てられたような厳粛な部分もぼくの親に見せることがあったが、でも何があっても、おばあちゃんはぼくにだけは厳しく当たらない。ぼくが小学のころ、眼鏡をかけた人に憧れがあったとき、わざと目を悪くしようと暗い場所でテレビをみていたことがあった。おばあちゃんはそれをみて微笑ましそうに笑っていた。時間がたち、ぼくが高校へあがるころ、自然と目が悪くなってメガネをかけ始めた。母は「おばあちゃんに目が悪くなったことをいわなきゃあかんね」というもんで、怒られでもするのかとはらはらしながら実家に帰宅すると、おばあちゃんは一言「似合ってるね」と云って「夢が叶ったじゃん」とにこやかに笑った。おばあちゃんは小学時代に、ぼくが眼鏡に憧れていたことを覚えていたのだ。
そろそろ今の話をするよ。この三日間、成人式を終えた僕はとある事情があり、ボケたおじいちゃんとともに過ごしている。
まず事の始まりは、おばあちゃんの入院だった。というのも特段深刻な病と言いうわけではないのでまず断っておきたいのだが、おばあちゃんはいまだに元気だ。入院や面会にでかけている母によると「お母さんが看護師をしていたときは手術の後きほん、みんなしんどそうだった。でも会いに行った術後のばあばはすごく元気だったよ。技術進歩だね」と関心を挟みながら語る。しかしそうなると、とある懸念点があった。それは、ボケたおじいちゃんが手術中・入院中、家に一人ぼっちになってしまうことだ。
前述のとおりおじいちゃんはボケており、去年の中旬は自転車で怪我を負い救急車に運ばれたことがある。もちろんすでに完治しているものの、ようは、ボケたおじいちゃんは危なげない性格であるということだ。母の姉は日中仕事だし、母も父も仕事で家にはいない。その間、実家に誰かおいて、ボケたおじいちゃんの様子を見ておかなければならない。そうなり、ぼくが抜擢された。
ぼくは成人式を終え、就職はしないもののお金の稼ぎをほそぼそと、それこそ、こういうちょっとした小説を書いて稼いでいるような人なので、日中はわりに暇なたちである。だからぼくが指名された。ぼくはその話を聞いたとき、別に苦でもないと感じた。面倒とも思わなかったし、読書とノートパソコンがあれば何でもいいやと考えていた。納期のある原稿がちょこっとだけ心配だったけど、幸い、筆がのったおかげで早めに脱稿した。
こうしてぼくとボケたおじいちゃんの生活が幕を開けた。
ぼくの体力のなさを考慮し、入院の一週間のうちの三日間だけ、自宅警備員を任命されたのだ。
「りょう」
と嗄声交じりの声でおじいちゃんがぼくを呼んだ。おじいちゃんは新聞紙で折り紙を器用に作り、わざと伸ばしている小指の爪で紙をするりと起き上がらせ、ほれと渡してくれた。
「おれが小さい頃はパソコンとかゲームがなくてな、だからこういう遊びで暇をつぶすしかなかったんだよ」
「そうなんだね。もうすこし教えてよ」
おじいちゃんに言われ手順通りに紙を折り、ぼくは紙鉄砲を作ることができた。おじいちゃんは銀歯をみせながら「はっはっはっ」と嬉しそうに口角をあげ、鉄砲をパンと鳴らした。ぼくも続けて鉄砲をパンと鳴らし、笑みを返す。
流れでおじいちゃんはあと二つ、折り紙を教えてくれる。「やっこさん」と「騙し船」だ。ぼくはそれを「ありがと」と優しく微笑んで受け取り、おじいちゃんの部屋から出てくる。リビングにでるとそのもらった折り紙をぼくはもちこんだカバンにいれる。カバンの中には、すでに同じ種類の折り紙が二・三個入っていた。
見ると、「紙鉄砲」と「騙し船」がすでに二つあり、新しくもうワンセット、カバンに入る。これはもう、慣れたことだった。おじいちゃんは一日に何度か、折り紙をみせてくれる。そして決まって「俺が小さい頃は、パソコンとかゲームがなくてな」と嬉しそうに云うのだ。ぼくは何とも言えない気持ちになりながらも、おじいちゃんを傷つけないために受け取ったりする。
言っておきたいのだけど、ぼくははなから「そういう筋」のプロではない。ボケているおじいちゃんの対応が、もしかして間違っているのかもしれないとか、たまには想う。でも少なくとも母の姉は、「りょうが来てくれると嬉しいんだわ、あいつ」とやれやれと手を振りながら教えてくれる。確かにおじいちゃんはぼくが家にいる間、わりと楽しそうだった。だからたぶん、ぼくは素のままでいいのだとおもう。
繊細な人間だとぼくは自負しているので、環境変化に弱い。家からでるとすぐ体調がわるくなり、車の移動だけでも吐き気がしてしかたがない。簡単にしんどい気持ちになるから、困った体質だ。それを加味して母や母の姉はぼくの抜擢を心配そうにしていた。当のぼくは「大丈夫でしょ」くらいの心持だったが、「ぼく」と「体」は別個の生物なので、加味して心配そうにしてくれる母と母の姉は、とてもありがたいものだと感じる。じゃあぼくも気負って慎重になれよと思えてくるけど、思考によるストレスも体調不良の種だったから、ぼくは可能な限り「大丈夫でしょ」の自己暗示を崩さずいる。そのおかげか、最終日の今日もつらさはない。疲労はあるけども。
「どれを食べる?」
ぼくは冷凍食品をおじいちゃんのまえに出す。
「おれはこれにしようかな」
おじいちゃんはどこかに意識を向けながらも、そう言った。
「いいのか、おれがさきに食べても? なんだかもうしわけないな」
「いいよ全然、ぼくのご飯が温まるまで時間が掛かるからね」
ぼくとおじいちゃんはそうやって冷凍食品を食べる。
「ゆうやはいまなにしているんだ」
おじいちゃんはぼくの弟のことをきいた。今日、三回目である。
「受験が終わって帰りが早いから、今は家かな」
「ひとりか?」
「そうだとおもうけど、一人でどこにでも行っちゃう性格だから、下手するとマックでも食べに行ってるかも」
「そうか」
三回とも同じ返答をしながら、ともに具材を頬張った。
その時、ぼくはふと目の前の人の変わり様から、にわかに『口にはだしちゃいけないこと』を思い浮かべてしまう。
(おじいちゃんはいつ死んでしまうんだろう)と、
ぼくは不安な気持ちになった。おじいちゃんをちらりとみてから、ぼくはすぐ視線に気付かれないように具材に目を向けるも、その思考の吹き出しが消えることはなかった。ボケはじめているおじいちゃんは、今は元気にみえる。でもきっともう長くはないのだろうと感じる。それは最近、二十歳になったことで時間の経過が早く思えてきたころだったから、なおのことよく感じた。
最近の流行りの過ぎ去り方をよくしっていた。昔大好きだった妖怪ウォッチが、もう今の子たちに通じない。今の子たちは東日本大震災の怖さを知らない。今の子たちは当たり前にスマホをもっている。(これもぼくだけの症状というより、誰しもに起こりうる症状である。ぼくだって考えても見ればポケモンやドラクエを知らないし、阪神淡路大震災の恐怖も体験したことないから、若者が大人になる過程で感じるものであると、ここで注釈したい)
ぼくの子供の頃から、時間は七年か八年くらいが経過しただけだというのに、もうこの頃、時間の経過による時代の移り変わりや、それに置いてかれはじめる自身の体感に辟易としていた。父方の親戚で子供がうまれ、年始に会いにいったのだが、元気よく家じゅうを走り回る子供たちの相手をしていると、ふと、「この子たちが中学生になるとき、ぼくは何歳なんだろう」と考えてしまった。
まあ、二十歳の若造がそんなことにしんみりとしてしまうのは、何か柄でもないような気もするけど、ぼくは時間というものが、いつの間にか怖く感じていると気が付いた。
そういう背景もあったから、目の前のボケたおじいちゃんがいつのまにかぽっくり逝ってしまうのではないかと思い、不安に思った。ぼくはこの家が好きだ。匂いが好きだ。そして彼らが好きだった。おじいちゃんとおばあちゃんのことが、ぼくは好きだった。それは限りなくささやかで、じんわりとした温かい愛の形である。激情も落胆もない、家族に感じる親密感だった。
「りょう、じいじの故郷で、おれは駅伝せんしゅだったんだ」
おじいちゃんが昔について語るたび、ぼくは相槌をうちながら陰鬱な感情に押しつぶされる。この人が過去話をしているとき――この人自体がぼくの過去になってしまうことが、この上なく怖く、考えることすら憚られる、非常に憂鬱なことだった。
「じいじ」
「ん?」
「写真撮ってもいい? ほら、ご飯食べてるとこをお母さんに送ろうかなって」
「おうおう、いいよ」
ぼくはおじいちゃんの写真を撮る。おじいちゃんは何のポーズをとらず、普通にご飯を食べている。その写真をスマホで撮影して、このデータを亡くさないように大事にとっておこうと思った。
時間というのは止まらない。ぼくが触れる様々なコンテンツにおいて、時間というのは絶対的でないこともあるが、現実は違う。この現実では、時間が絶対なのだ。ぼくは将来が不安だった。この絶対な現実で、就職もせず好きなことでだらだらと食っていけると、本気で思っているのかと。でも違うと思った。
なぜ生きるのか。なぜ死ぬのか。無意味に考えることがある。
ぼくはたいてい、専門的な結論を出すよりかは、個人が納得するだけの都合がいい結論を出すことがおおい。ぼくは、なぜ生きるのか。それを「なりたいものになるため」だと思っている。そうすると次に考えるのは、なぜ死ぬかだ。ぼくはおじいちゃんを見た。楽しそうなおじいちゃんを見た。
(このひとはどうして、いま楽しんでいるんだろう)
その問いは、母の姉の言葉が答えだった。
ぼくは静かに撮影した写真を眺める。おじいちゃんは決してカメラ目線ではないし、わざわざこっちを向いてポーズをとってというのは不思議と間違えてる気がした。じっと写真を覗く。おじいちゃんの黒いジャージと猫背、黒や灰色の斑点がまちまちとついている顔に、灰色の薄毛の頭部を冬の隙間風によりねじれている。ぼくは今後、おじいちゃんを鮮明に覚えておこうと思う。過去にならないくらい、思い出そうと思えば思い出せるくらい、鮮明に覚えようと思う。これはぼくが大切に感じるひとたち全てに、同じことをしようと思う。そして出来れば、この儚くも温かい愛の形を、誰かに伝えられればと思う。
いまは二千二十五年、一月二十四日の十七時五十二分、背後の襖の奥でおじいちゃんが虚ろに座っている。そろそろおなかが減ってきた。ご飯にしようと声をかけようとおもう。
これは夏城燎の、この三日間で感じて知った想いの記録だ。
最後までぼくは、おじいちゃんにとっての孫を、出来る限り遂行しようとおもう。少なくともいまに縋って、未来を想像するのは、あとにして。