【銀戦華】ギンセンカ。ヒトを愛しヒトを嫌う、白銀色の戦の神。
【愛衣桜】アイザクラ。大切なヒトの生まれ変わりを永遠に待ち続ける、健気な桜の精。
「はあぁ、もうっ! ほんとよかった! 姉ちゃん心配したっ……! やっくんが十六で朝帰りデビューなんてことになったら、姉ちゃんは父さんと母さんに土下座しなくっちゃ……」
「あれは冗談だよ。あお姉なら笑ってくれると思ったのに」
「笑えないっ! 笑えないよ、やっくん! やっくんて、いっつも本気の顔してるから」
「あっ、それわかります。大和って真面目な顔でとんでもないこと言いますよね」
玄関扉の開いた隙間からひょっこり覗いた第三者の顔に、せわしなく動いていた葵の口が、半開きのままぴたりと止まった。え、だあれ? という顔だ。
紹介しようと思って連れてきたのに、玄関へ入るなり怒涛の勢いで捲し立てられたせいで、登場させるタイミングを逃してしまっていたのだった。
「あお姉、今の三分間の会話、全部聞かれてたから。で、お待ちかね。彼が今話題の、僕とお付き合いしてる人」
顔だけ覗かせている男を玄関へ引っ張り入れる。マンションの狭い玄関スペースは打掛の裾でほとんど覆われた。
「あの、は、はじめましてっ! サクラと申します……」
葵は目を大きく見開き硬直している。その驚愕の矛先がどこへ向けられているのかは、正直姉弟とはいえわからない。突然の訪問――連れてこいと言ったのは葵の方だが――へなのか、男の恰好へなのか、そもそも男であること――今朝知らせておいたのだが――へなのか、はたまた別のものへなのか。
口達者なはずの葵が黙ったままでいるのをこれ幸いと、大和は先手必勝の精神で積極的に喋り出した。
「聞いて、あお姉。嘘は一切つかないから。サクラさんは桜の精で、今は町外れの丘の上に立つ一本桜に棲んでるんだ。見た目は僕と変わらないけど、歳は二千歳くらい。元は戦の神だったのが、転生して桜の精になった。僕とは五百十四年と三カ月前に一度出逢ってるんだ。彼はそのときからずっと、生まれ変わった僕に再会できるのを待っていた」
「……そう、なの……」
ずらずらと説明を並べると、しばらくの沈黙ののち、ようやく葵が一言、絞り出すように言った。彼女の目はじっと男を見つめている。見つめられた男は、緊張でごくりと唾を飲み込んだ。
葵が片手を持ち上げる。女性らしい、形の良い手が、銀髪の上にそっと下ろされた。男はぴくりと肩を揺らし、玄関の段差でやや高い位置にある葵の目をおずおずと見上げる。
「あの、僕……本当なんです。信じていただけないかもしれませんが――」
「信じるわ」
と葵は言った。
今、なんて? 願った台詞が思いの外簡単に得られ、大和は耳を疑ってしまう。
だが聞き違いでない証明のように、葵の手が銀髪を優しくかき混ぜる。
「ふうん。桜の精だから、サクラさんね。だからその着物も桜柄なんだ? 弟と仲良くしてくれてありがとう」
「……あお姉、本当に?」
「ええ。信じるわよ、今の話」
葵はにこにこと笑っている。声には張りがある。
「もう少し、何か言われるかと思った。さっきみたいに」
「そりゃ朝帰りの件は言うわよ。当たり前でしょ、未成年なんだから。だけど、恋人に関しては別。やっくんが選んだ人だもの。信じないわけないじゃない」
「そう……なんだ?」
潔い。そしてかっこいい。きっぱりと言い放つ葵は神々しく見えた。
それにね、と彼女はつけ加える。
「私、どうしてかわからないけど……昔からあの丘の一本桜は好きなの」
首をことりと傾げて微笑む姿が、いつかの誰かに重なる。
『あなたを想って、私の心は桜のもとへ帰ってくるの』
そう言ったのは誰だったろう?
「さーて二人とも、上がって上がって! 今夜は鍋よぉ!」
葵は一際明るい声で言って踵を返し、ぐいっと大きく伸びをした。
「鍋? 春なのに?」
「だってぇー。今日はやっくん帰ってこないかもって思ったから……不器用な姉ちゃんには材料放り込むだけの鍋ぐらいしかぁ」
廊下の途中で半身振り向いた葵は、じっとりとこちらに横目を遣って頬を膨らます。何の含みも無い、いつもの姉だ。なんだか急にほっとして、肩の力が抜ける。
「サクラちゃんも早く上がって。着物、汚れるといけないから、あとで私のパーカーに着替えなさいね」
「はいっ! ありがとうございます!」
「あお姉……ほんと、順応力高すぎ。……感謝しか無いよ。ありがとう」
「いえいえ」
眉を下げ、まるで母親のような顔で葵は笑う。
もしもこの場に母親がいたら、彼女もやっぱり、こんな風に微笑んだろうか。慈愛に満ちた目を細め、鈴の鳴るような声をして。
大和は、その姿を何故だか懐かしいように想い浮かべながら靴を脱ぐ。先に上がっていった男の打掛が、足元を見ていた大和の視界から、するりと消える。大和は目だけで無意識に、その消えた先を追う。
そうして不意に、ああ、と確信した。
自分もきっと、待っていたのだ。何百年と昔から、今日、この日の幸いを。
「大和」
「やっくん」
顔を上げる。
廊下の途中に男が、そして、その先に葵がいる。
二人の姿を目に留めて、大和の心は春の海のように静かに凪ぐのだった。