青く穏やかな春の空に真っ白な雲が浮いている。緑の丘を撫でゆく風は、十二単の姫君が華奢な手で生み出す扇子の風よりも優しい。
いくつかの雨を経た桜の樹は、花々の間に葉桜の新芽を覗かせ始めた。その下に、変わらぬ満開の花を描きつけた打掛を着て、彼が立っている。
勾配を上っていくと、男は大和に気づいてはにかんだ。一生懸命に手を振ってくれる姿がいじらしい。振り返してやると照れたような顔をする。
「おはよう、サクラさん」
「おはようございます、大和。今日は空が、とても広いですね」
男は空を仰いですうっと深呼吸をした。空が広い、という感覚はいまいちピンとこない大和だったが、きっと桜の精にとってはいつもより気持ちのいいものなのだろうと考える。
「こんな日には空中散歩が最高です」
大和に視線を戻し、男はからりと笑った。聞きなれない単語を、確認するように復唱してしまう。
「〝空中散歩〟?」
「はい! 気分がスカッとしますよ。空は嫌いですか?」
「別段、好きでも嫌いでも」
「じゃあ決まりです! お手をどうぞ、お姫様」
男は片手を胸に当て、もう片方を恭しく大和に差し出した。お姫様などと、自分の方がよほどそれらしい恰好をしておいてよく言う。
「手を繋げば僕も飛べるの?」
にこにこと無邪気に笑う男の手のひらに、半信半疑で自分のそれを重ねる。すると、途端にきゅっと握り込まれた。
「ええ、もちろん。どこまでだって飛んでいけます、よっ!」
「わっ!」
男の足が地面を踏み込んだ次の瞬間にはもう、その地面は、遥か下方だった。
「うそ……」
嫌な衝撃は無く、テレポートでもしたかのように、一瞬のうちに空へ浮かび上がったのだ。
しばらくは圧倒されてまともな言葉が出なかった。いつも見上げる青空が目線と同じ場所にあり、目に見える限りどこまでも続いている。
下を見ると、ビルや樹や人、あらゆるものが遠い。ジオラマ模型の上に立っているような気がしてきて、足元に広がる世界が本当にさっきまで自分がいた場所なのか、わからなくなる。
世界はなんと弱々しく見えるのか……。他より一際高くそびえ立つ電波塔でさえ、触れれば簡単に壊れてしまいそうだ。
神だ精霊だという者たちはいつも、こんな景色を見ているのか。地面にへばりつく霜柱みたいな街々を優雅に俯瞰し、虫のように小さくせわしなく動き回るヒトを、彼らは、なんと思うのだろう。
ふと自分が独り、ヒトの世界からあぶれたように思え、胸の底がざわめく。
「怖い……ですか?」
「えっ……?」
繋いだ手に力を込められて、ようやく隣の存在を思い出した。
「脈が速いです。それに、手が汗ばんでる」
男は手を繋いだまま、逆の手で大和の手の甲をさすった。
「ごめんなさい。浮かれて飛び過ぎちゃいました。僕はこれくらい高い場所が好きで……でも、やっぱりもう少し」
周りの雲が上に流れていく。自分たちが高度を下げているせいだと大和は気づいた。
「天上はもっと高いから、高いのが怖いだなんて思ったことなくって」
しょんぼりと眉が下げられる。それを見た瞬間、さっきまでの変なざわめきが霧散した。代わりに別のざわめきが、遠くから、波のように寄せてくる。大和は知る。自分は、この男のこんな表情が、他の何よりも嫌いだ。見たくない。だから。
「ごめん、もう大丈夫。怖くない」
繋いだ手を引っ張って、細い身体が飛び込んでくるのを抱き締める。
「あ、え、大和?」
「君がいてくれるから大丈夫。ほら、手回して?」
促せば、男の手がそろそろと背に這った。抱擁くらい何度もしてるのにいまだに恥ずかしがるところが、どうにも可愛いくて切ない。
「どこにでも連れてってよ。どこへだって行けるんでしょ?」
「えっと、だけど、下りなくて……?」
依然として雲たちは上へ上へと流れ続けていたが、「いいよ。下りなくていい」という大和の言葉に、速度を落として止まった。
「さっき、ほんの少し怖いなって思ったのはね、なんだか自分がヒトの世界を離れて独りになったように思えたから」
「独り……」
沈んだ声で男が呟く。そのどんより具合が愛しく思え、大和は男の顔を覗き込んでにまっと笑った。
「うん、でもすぐに〝君が隣にいる〟って思い出した。だから平気。……君ってよく落ち込むね」
「だって」
「桜の精ならもっと華やかな顔しなよ?」
白桃の頬をぷに、とつまむ。柔らかくて気持ちがいい。悪戯のつもりで何度かやると、男は「ほっぺた取れちゃうっ」と顔を赤らめて口を尖らせた。
何から何まで愛らしい。今この瞬間、目の前の彼は自分だけの精霊で……恋人だ。
「ねぇ、連れてって」
雲の上でも海の果てでも。
僕は見たい。彼がかつて目にした景色と、彼がこれから目にするであろう景色を。
待たせ続けた五百十四年と三カ月をヒトの一生で埋められるとは思わない。けれど、でき得る限りを共に生きることに尽くしたい。
「僕を連れていってよ、このヒトの世界で、君が一番好きな場所へ」
「一番、好きな? ……うーん」
広大な空の上でふたり、睦言を交わすように囁き合う。鼓膜に届く彼の声が、堪らなく心地よかった。
「僕がこの世界で一番好きな場所は、いつもの丘なんです」
「あの丘?」
「はい。丘の上の桜の樹、その根元で遠い昔……僕はあなたと初めて出逢いました」
男の声が柔らかくほどける。
「雪の降る冬のことでした。天上から落ちて動けなかった僕をあなたは家に運び入れ、治療をしてくれたんです。あったかいお茶とお粥まで食べさせてくれて。泣き言を聞き、慰め、固有の名の無かった僕に〝サクラ〟という名をつけてくれました。
ヒトなんて怖くて嫌いでした。でも、あなたが僕にヒトの儚い美しさを教えてくれた。ヒトのもつ〝愛〟というものを、あなたの死に様から学びました。そうして僕は、儚くて美しい愛を持つあなたを、好きになったのです」
「サクラさん……」
語りの中で懐古に織り交ざる愛情。それに気づき、大和の胸はちりちりと痛痒くなる。
なんて馬鹿な、と自嘲する。昔の自分に、嫉妬しているのだ。自分は転生前の記憶を持たない。だからまるで、他の想い人の話を聞かされているようで。
「なんだか複雑……。君は〝昔の僕〟が好きなんだね?」
「妬いてくれたんですか、大和?」
「うるさいな」
「ふふっ、嬉しいです。とっても」
今も昔も、僕はあなたが大好きですよ。そう言って、苦しいほど強く抱き締められた。細身のくせに、やはり彼はヒトを凌駕する精霊なのだ。胸が詰まってケホッと乾いた咳が出る。
「ねぇちょっと、それって答えになってない」
「意地悪言わないでくださいよ。おんなじあなたの魂に優劣なんてありません」
「でも答えてくれないと僕は安心できない」
足元のずっと下でボーッという太い音が鳴った。船の汽笛だ。いつの間にか風に流されて港の辺りまで来ていたらしい。
汽笛に散らされて、たくさんの羽音と共に鳥たちが舞い上がってくる。
「ちょっと退きましょうか」
男は大和の手を引き、ふわふわとゆっくり海の方へ進んでいく。
高くなりつつある中腰の太陽が、紺碧の水面に銀の鱗を散らしていた。大和はきらきらとまばゆい反射に目を細め、細めた隙間から前を行く桜の精の後ろ姿を見た。
その視線に気づいたとでもいうように、繋いだ手が握り込まれる。
「ねぇ、大和。安心できないっていうなら教えてあげますよ」
「何を?」
「僕がこの世界で一番好きな、もうひとつの場所」
振り返った男の瞳は、視界に映る空と海よりも青かった。潮風の香りに花の香りが混じる。ふわりと広がった桜柄の打掛が青に映えて美しかった。
全身を包まれる。その温もりに、どうして自分はこんなにも、ほっとするのだろう。
「それは、ここです。この場所を求めて、僕は五百十四年と三カ月も待ったのですよ? 待ちくたびれて後悔しました。あの晩、想いにまかせて強引にでも抱擁しておけばよかった、と。だって大和、かつてのあなたは一度だって、僕を抱き締めてはくれなかったのですから」
「そっ、な……の……!」
一番好きなもうひとつの場所は、あなたの腕の中。そんな風に言われたら、何も言い返せない。カッと赤くなった顔を見せないように、抱き締め返すより他にない。
「ずっとくっついていたいです。ずっと一緒がいい。駄目ですか?」
ああ、そんなに熱っぽく言わないで……!
「いっそ、あなたと一つになれたらいいのに」
こんな空で! 海の上で! 太陽が眩しいってのに僕は……!