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【衣】 イ。ころも。きぬ。

「早起きねぇ……日曜なのにぃ」


 大和がダイニングで一人朝食をとっていると、長い黒髪をぼさぼさにした葵が、夢の中に片足突っ込んだみたいな表情でやってきた。窓から入る光が眩しいらしく、目を細めている。


「どっか行くのぉ?」


「うん、ちょっと用事があって。ごめん、起こしちゃった?」


「ううん」葵は寝間着にしているTシャツの首から右手を突っ込んで、左のブラジャーの肩紐を直した。弟の前では恥も何も無い。「トイレに起きただけ……」


 大和の様子をひと目見て満足したらしい葵は、立ったまま寝ているのではと思うくらいに遅い瞬きを一度繰り出すと、よたよたと踵を返す。


「あお姉、朝ご飯はフライパンの中だからね。食べる前にちゃんと温めてよ?」


「ふぁあい。じゃあねぇ、やっくん」


 欠伸をしながらひらひらと片手を振り、廊下の方へ戻っていく。その背中を、大和は見送る。きちんとしていればそれなりにモテるだろうに、と大和はいつも残念に思い、そして一方で、そうではないことに、ほっとするのだった。


 チーズ入りのオムレツをぱくり。


 いつか葵が「彼氏なの」と笑って男を連れてきたとき、自分は一体どう対応するだろうか。オムレツを咀嚼しながら考える。


 やってきた男がどんなに人のよさそうな好青年でも、きっと自分は疑ってかかるだろうと大和は思う。別に葵の判断を信用しないわけじゃない。むしろ、葵の選んだ人ならば信用するに十分だ。けれどそれでも疑うというのは、ただ、そういう役割を担う人が、家族の中に一人は必要だからだ。例えば父親のような。


 ではもし自分が恋人を連れてきたら、葵はどんな反応をみせるだろうか。想像するに難くない。まずは驚く。きっと、〝朝起きたら男になってました〟、ってくらいの衝撃を受けて。しかしすぐに順応する。そして、屋台のカラーひよこでも見るように物珍しげに恋人を観察し、褒めるにせよ貶すにせよ、色々といらぬお節介を焼きたがる。まるで母親のように。


 自分は本物の〝父親〟も〝母親〟もよく知らないが。


 牛乳をこくこくと飲み干したところで何故か再び葵がやってきた。まだ眠そうな、かすれた声で呼ばれる。


「ねぇ、やっくーん」


「どうしたの?」


「おなかすいたぁ。やっぱり食べてから寝るぅ」


「はいはい」


 この姉の面倒を見ることになる男は、きっと苦労するだろう。そんなことを思いながら、大和は自分の食器を流しに放り込み、葵のためにコンロに火を入れる。食パンをトースターにセットして、


「牛乳? オレンジジュース?」


「オレンジ!」


「はい、りょーかい」


「そういえば、やっくん。用事ってどんなぁ?」


「デート」


「そう、デートね。ふーん。……は? デぇトぉ?」


 ガタタンッ、とひどい音がしたので振り向いてみると、テーブルに手をついた勢いで立ち上がったらしい葵が、目をパカッと大きく開いて放心していた。椅子は見事にひっくり返っている。


「え、あお姉、平気?」


「やっくんが……女の子とデート……」


「いや、相手は男の子だよ」


「おっ、とこぉおッ?」


 素っ頓狂な叫びが朝のダイニングに響く。そう、男。男とデート。それで、何か問題でも?


 温まったオムレツとウィンナー。冷蔵庫からサラダ。パンにはマーガリンを薄く塗る。それと、さっき注いだオレンジジュース。


「じゃあ僕は準備して行くから。食べ終わったお皿は流しに入れて、水を差しといてね」


「ちょ……、やっくん」


「初デートで遅刻はしたくないんだ。引き止めないで」


「だって、おとっ、おと――」


 こ……と続くだろう葵の声は、ダイニングの扉を閉めて断ち切った。


 廊下を自室に向かいながら、大和は思わずくすっと笑ってしまう。男勝りでちょっとやそっとの困難ではびくともしない姉が、これほど目に見えて狼狽えるとは。


 しかし無理も無い。今まで浮いた噂ひとつ無かった弟が突然デートをすると言い出したのだ。性に無欲な健全少年だとばかり思っていた弟が! しかもっ! 相手は男!


 その男が実は〝戦の神〟から生まれ変わった〝桜の精〟で、大和のことを五百十四年と三カ月も、まるで忠犬ハチ公のように待ち続けていたと知ったなら、姉はどうなってしまうだろう。 


 状況的にはとんでもない役満だ。


 上着を羽織り、鞄を引っ掛け、玄関まで来て靴を履く段階になって、ダイニングの方が騒がしくなった。葵が一人で何か言っているようだ。自分はこのまま出よう。荒波が押し寄せる前に。


 玄関のノブに手を掛ける。


「っと待ったあぁ!」


 来た……! ダイニングの扉から葵が飛び出してくる。


「やっくんっ! その子、姉ちゃんに紹介しなさい? うちに連れてきて! なんなら今夜泊まっていってもいいんだから!」


「泊まってもらっても、隣の部屋にあお姉がいたら何にもできないじゃないか」


「……へ?」


「じゃ、行ってきます。というわけだから、朝帰りでも怒らないでね」


「うそ……! やっく――」


 バタンッ。


 マンションの外廊下を、涼しい朝の風が吹き抜ける。爽やかな気分で、大和はまたくすりと笑みを零す。


 あお姉のあの顔……!


「初デートで朝帰り……ね」


 実行しないだろう程度には理性的に育ててくれたあお姉に、感謝しなきゃな。

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