男が本物の〝桜の精〟であることを、大和はすぐに思い知ることとなる。
翌日。土砂降りの雨の中、逢瀬のために一本桜を訪れると、男は傘も合羽も無く、太い枝の上で横になっていた。
「大和。来てくれたんですね」
男は大和の姿をみとめると、嬉々として身を起こす。
「サクラさん、こんなひどい雨の日に」
傘も無しに、と言い掛けて大和は口を閉ざした。この大雨だというのに、男の髪や身体はちっとも濡れていない。すぐ真下まで近寄って目を凝らすと、雨が彼の周りを卵形に避けているのが見えた。これが精霊というものなのか。
「雨が降るたびに、初夏に近づいていきますね」
雨粒に打ち落とされた花びらを手のひらで受け止めて、男は感慨深げに目を伏せた。
届かない距離だと知りながら、地面に立つ大和は、傘を持たない片腕を伸ばす。
「ねぇ、サクラさん」
「なんですか?」
「寒い」
「それは大変です」
言外に『傍にきて』と匂わせれば、男は裸足にも関わらずふわりと舞い降りて、濡れそぼる草に足を浸す。必要無いと思いつつ傘を差し掛けてやると、男は嬉しそうに目を細めた。
打掛で大和の身体を包むように腕を回し、男は大和の首元に擦り寄る。男の方が幾分背が低いので、大和は少し身を屈めている。打掛は不思議なほど温かい。それを素直に口に出すと、男はふふっと笑って顔を上げる。
「そうでしょう? 陽だまりの精霊が、内布に春の陽光を閉じ込めてくれたんです」
満足げで、得意げな表情だった。「それだけじゃありません。綿の中に埋め込まれた水神の鱗は、結界を張って、どんな豪雨をも弾いてくれます」
「すごいんだね」
「はい。この打掛は特注品です。そんじょそこらのとは違います。でも――」
男は恥ずかしそうに声を抑えて言った。
「大和がこうしてくっついて、傘に入れてくれるなら、もう……いらないかもしれませんね」
甘えた猫のような仕草で頬を擦りつける。触れた肌は熱く、ふわふわの銀髪が首筋を掠めてくすぐったい。耳元で「あのね」と囁かれれば、危うい衝動が腹の底でぞくりと波打った。
「大和といると、とてもあったかいんです。身体中の血が沸騰しそう」
「そんな。どうして僕を、そんなに……?」
何の変哲もない、ただのヒトである僕を。
「だって、ほんとのことですっ……」
「ごめん。嘘だなんて言わないよ。ただ、ちょっと、現実感が薄くて……」
ほんの少しだけ身体を離し、互いの顔を見つめる。男の眼差しが大和を逃がすまいとして、胸の奥底までも追ってくる。
「全部夢だとでも?」
「……あるいは、そう思う方が現実的かも」
「そう」
男の手が、傘を持つ大和の手に重なり、指の間からやんわりと傘の柄を奪った。そうしてわざと風にさらわせる。
勾配に落下した傘が半回転して止まるのを、大和は目の端に見る。
不思議な気分だ。傘が無くとも髪は濡れないし、ここは温かい。しかし。
「夢だというのなら」
男の身体は小刻みに震えていた。
「夢じゃないと思えるまで」
怒っているのか。もしかすると、何かを堪えているのかもしれなかった。
「あなたの好きにすればいい。なんなら剣で刺してくれたって構わない」
瞬間、頭に血が上り、大和は言葉も理性も忘れて目の前の唇に噛みついた。身体が熱かった。
歯列を分け入った内側は、さらにさらに熱かった。蕩けるような舌に自分のそれを絡め、甘い唾液を吸い、粘膜を優しく撫でる。鼻にかかった相手の声を飲み込み、角度を変えてもう一度。
混ざり合った吐息と体温が、卵形に切り取られた空間の温度を上げていく。
やがて唇を離し、互いに潤んだ瞳を見つめながら大和は言った。
「ごめん」
「……何に対して?」
「全部」
うん……、と男は長い長い間を取って答えた。
「僕もごめんなさい、変なこと言っちゃって。……〝剣を持つのは武士だけ〟、でしたね」
何か、大和の知らない苦痛を隠して無理に口角を上げるその表情は、その瞳は、夢というには鮮明で、剣で刺すには儚過ぎた。