――満開の桜の刺繍を 白の打掛に咲き誇らせて
「あなたと出逢う春を、五百十四年と三カ月待ちました」
突然降ってきた涼やかな声に顔を上げると、薄桃色の花びらの中、太い枝の上に腰掛ける姿があった。線は細く儚げだが、凛と見下ろしてくるその容貌は、確かに男だった。
「何? 僕に言ったの?」
「そうですよ、大和」
男は座っていた枝をついと押しやり、純白に桜の刺繍が施された打掛をひらめかせ、草の地面に降り立った。とさりとも音の無い、まるで花びらが舞い落ちるかのような優雅さである。
「名前……」
「ずっと前から知っています、片桐大和。僕は〝桜の精〟です。六十年ほど前までは〝戦の神〟をしていました」
「は?」
同じ学校の生徒だろうかと大和は頭をひねる。こちらのことを知っているようだし、見るに、年も自分とさほど変わらない。
「えっと……日本国が戦をしない国になったから、ようやく転生のお許しが出て……」
転生……。
いつもは冷静沈着、感情を滅多にあらわにしない大和だが、古風な格好をした目の前の男が繰り出す奇怪な言葉の数々には、さすがに眉をひそめた。
「君は、どこかの劇団の?」
演技の練習でもしているのだろうか。こんなひと気の無い丘の一本桜に登り、白襦袢に打掛、素足という浮世離れした装いで。
「劇団? ああ、劇団四季のライオンキングは大好きです! あなたを待つ間、何度も観ました。役者陣の迫力! 舞台装置のクオリティ! コスパ最強ですよね。コスパといっても僕の場合はタダ観になっちゃうんですけど」
「えっ?」
「あっ……いえ、ちゃんと値段分の働きはしましたよ? 劇場に活けられてた花とか劇場周りの樹木とかに、たくさん精気を振り撒いてきました」
だから泥棒じゃありません、と女のように整った顔を薄赤く染めて男は微笑む。あくまで〝桜の精〟とやらを演じるつもりらしい。結構なことだ。もっとも、これ以上付き合う気は無いが。
「よくわからないけど大変そうだね。頑張って。僕は夕食の買い物があるから、これで」
当たり障りのない台詞で会話を切って踵を返す。そろそろ夕方のセールの時間帯だ。昨日はハンバーグだったから、今日は魚がいい。
この春で高校二年になる片桐大和は、八歳年上の姉、葵(あおい)と二人暮らしをしている。両親は、大和が生まれて間もない頃に交通事故で他界した。それ以来、祖父母に育てられてきた二人だったが、一年前、大和が中学を卒業したのを機に、そろって姉の会社の社宅に引っ越した。祖父母は寂しがったが、大和も葵もこれ以上、老齢の祖父母に頼ったままではいられないと思っていた。幸い、社宅は祖父母の家の近くなので、祖父母が困ったときにはすぐに助けに行ける。
「大和!」
勾配を数メートル下りたところで名を呼ばれ、直後、重い衝撃が背中を襲った。
「なッ……!」
ほんの一瞬だった。身体が前のめりに傾き、勾配がぐんと目前に迫る。これはマズい、顔からいってしまう……! と、思うのとほぼ同時、自分でも意外なほど優秀だった反射神経が、すんでのところで片腕を地面につかせた。ズザザァッ。危機一髪の状況に、心臓が激しく脈打つ。
笑えない。
息抜きのつもりで丘に登ったのに、今や手足は痛み、制服は砂まみれだ。
唖然としていると、背後から首に回された腕がぎゅうっと強くしがみついてきた。
「待ってください、大和。まだ行かないで。一番大事なことを言っていませんでした。僕の名前は〝サクラ〟といいます!」
今この状況で最優先に言うべきは〝ごめんなさい〟ではなかろうか。ひとを押し倒して背中に伸し掛かっておきながら、自己紹介……?
「何でもいいから退いてよ。重い。下り坂で後ろから飛びついてくるなんて常識外れもいいとこだ」
「あ、のっ、ぼ、ぼくと! おと、とっ、友だちにッ……なってくらっ!」
「ねぇ、聞いてる?」
大和は肩越しに背後の人物を振り返る。顔は伏せられていて見えない。だが、真っ赤になった耳がさらりとした銀髪の間に覗いているのが目に留まる。
なんとなく、そんな気になり、不自由な体勢から半身を捩って片手を伸ばした。指先で耳介(じかい)に触れる。真っ赤な見た目通りに熱い。少し悪戯心が芽生えて親指を穴の部分に差し入れると、男は「ひゃっ」と悲鳴を上げて身体を跳ねさせ、草の上に転がった。仰向けで耳を押さえる男に、仕返しとばかりに今度は大和が伸し掛かる。豊かに広がった打掛を膝で踏み、顔の両脇に手をついてしまえば逃げられない。こちらを見上げてくる瞳は晴天の空と同じ色をしていながら、今にも泣き出しそうになっていた。
「ほら、困ってる。僕も困ってるよ、制服砂だらけになったから」
「あの、ごめ、な……」
「自分がされて嫌なことは他人にしちゃ駄目。わかった? 桜の精さん」
「でも、僕……」
男は長い睫毛を伏せ、腹の上に無造作に置いていた細い手を、躊躇いがちに持ち上げる。桜色をした指先が、ボタンを留めないジャケットから垂れた大和のネクタイに、おずおずと触れる。
ふわり。
春風に乗ってどこからか甘いような芳香が漂ってくる。何かの花の匂いのような。桜じゃない。別の。いつか嗅いだことがある、独特の香り。
男はネクタイの先を引き寄せ、大事なものにそうするように、頬にくっつけた。口づけたようにも見えて、大和はぎょっとしてしまう。
「僕は、大和になら何をされても、嫌じゃないんです」
静かで真剣な声が鼓膜を揺らした。愛おしむような微笑みが向けられる。
大和の脳裏を何かが掠める。
これは……既視感? 前にもこんなことがあった気がする。でも前は、もっと――
『せっかく……すき、に……なれた……のに……』
――哀しかっ、……た? この青い瞳は、悲壮と情愛で濡れていた?
「僕とお友達になってください、大和」
「……いいの? 〝友達〟で」
気がつくと、そう口にしていた。自分は惑わされたのだろうか、この桜の精とやらに。あるいは、これが運命だとでもいうのか。
〝五百十四年と三カ月〟。男がそう言った遥か昔から、この日のためにさだめられていた。
「いいえ。よく……ありません」
男の腕がうなじに回る。引き寄せられているのか自分から近づいているのか、大和にはわからなかった。青い瞳がいっそう傍にきて、その深く澄んだ部分に自分の姿が映る。
瞼を閉じれば間もなく、柔らかな感触に出逢う。
瞬間的に周りの音が消え、触れた部分から熱がひろがっていく。その熱は、雪の上に落ちた陽だまりだった。萌えいずる春の、始まりを告げる光だった。
唇を離し再び相まみえた瞳が語る。〝待っていました、大好きなヒト〟
「大和、僕の……恋人になってください」
答えの代わりに、二度目は明確な自分の意思で口づけた。