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【戦】 セン。いくさ。たたかう。おののく。そよぐ。

 囲炉裏で薪がぱちぱちとはぜる。橙色の炎が燃え、薄暗く狭い小屋を暖めていた。


 囲炉裏を挟んだ向こう側では、硬い布団の上で男が寝ている。瞼を閉じた表情は穏やかだ。腫れ上がっていた足首にはすり潰した薬草を当て、細かな切り傷には軟膏を塗り込めた。服を着せ替えて布団をありったけ羽織らせ、額の上には濡らした手拭いを置いてある。


 男を拾ってから四半日ほど過ぎた。陽はすっかり落ちたが、雪は相も変わらずしんしんと降り続いている。


 布団でくるんでもなお男のしなやかな体躯から匂い立つ花のような香りに、眩暈がした。まるで満開の梅と桜と、咲きたての野花の中にいるようだ。かいでいると、頭がふわふわと浮つく。


 囲炉裏の脇に座ったヤマトは人外のもつあやしい芳香から理性的な意識を守るため、燃える薪を意味も無くつついていた。囲炉裏の上に吊るしたやかんでは水が煮えている。男が起きたら茶でも淹れてやろうと思うのだが、いまだその気配は無い。


 雪はあとどれぐらい続くのだろうか。ヤマトはおもむろに立ち上がり、土間に下りて戸の上の小窓に手を掛けた。古びた木作りの板を横にずらすと、外が見える。雲間から滲む月光を白絨毯が反射して、下の方だけが薄っすらと明るい。そこへ降り積もる大粒の雪は絶え間なかった。夜明けまでにもう三寸ほどは積もりそうだと予想する。


 ぱちん、と背後で一際大きく薪がはぜた。それと同時に布擦れの音がして、身体が反射的に振り返る。


「あ、起きたの」


 男が身を起こしていた。額に乗せていた手拭いはくったりと掛け布団に落ち、適当に着せた肌着の前合わせが崩れて開いてしまっている。


「寒くない? 足の痛みは?」


 男の様子を窺いながら数歩近づく。掛け布団の上に虚ろに投げられていた男の視線が、瞬時にヤマトへと向けられた。しかし敵意や怯えは無いようだ。乾いてもなお赤い唇が、掠れた声を生む。


「おなかが……空きました……」


「……あー、ちょっと待って。今お粥を煮るから」


 ヒトは嫌いだ、とのたまった男のあまりにヒトらしい要求に、ヤマトは頬を緩ませて、土間に置いた米びつを開ける。二人分を煮るのは久々だ。水加減はどれくらいだったろうか。


「卵落としてもいい? それとも白いままのほうが?」


 米をとぎながら尋ねる。水の冷たさより男の反応を拾おうと全神経が傾いた。


「たまご……殺生……ヒトって傲慢ですね」


 抑揚のない声が告げる。助けてもらってその言い方は無いだろうと思いつつ、非難は飲み込むことにした。


「じゃあ、卵は無しで」


 米と水を入れた鍋を持ち居間へ上がる。水を煮ていたやかんを下ろしてお粥の鍋と交代させた。


「君は菜食主義の妖なんだ?」


 ヤマトは沸かした湯を急須に注ぐ。深緑の茶葉が中で舞い、あやしい芳香に満ちた居間に、涼やかな青い香りを振り撒く。


 急須から顔を上げると、男がこちらを見ていた。雪のもとで青かった瞳には橙色の炎が溶け込み、もとの色をわからなくさせている。色と同時に男の真意も隠れてしまっているようだ。


 たとえ一瞬でも目を逸らしたら負け、とでもいうように、男は瞬きすらしない。やがて薪のはぜる音に粥の煮える音が混ざり始める。


 ヤマトは目を伏せ、急須を手に取った。新緑色の液体を二つの湯呑に交互に注いでいく。いつもより少し色が濃く出てしまった。二人分を淹れるのが久々なせいと、男に気を取られたせいだ。


 それでも不味いほどではないだろう。湯呑のひとつを取って立ち上がる。


 男は距離が近づくことを警戒するように、ヤマトを目で追った。ヤマトは囲炉裏を回り、布団の脇に膝をつく。


「お茶は嫌い? 妖さん」


 湯呑を差し出す。男の視線は湯呑とヤマトを二、三度往復した。


「違う。僕は妖じゃない」


「じゃあ、君は何者?」


「知ってどうするんですか?」


「わからない。返答次第……かな。さぁ、冷めないうちに飲んで。囲炉裏の傍は、身体が渇くから」


 掛け布団の上の手を取って湯呑の上部の熱くない部分に当てる。振り払われるかと思ったが、意外にも男は素直に湯呑を持った。


「片手は底を支えて……そう。熱いから気をつけて」


 赤い唇が湯呑の縁につく。湯呑が傾き、喉が鳴り、肩をすとんと下げると、男は再びヤマトを見つめる。


「あなたは……ヒトの中でも〝いいヒト〟なのですか?」


「どうだろうね。ただ、怪我人の君にさらに怪我をさせようとは思わない」


「僕を妖だと思ってるのに?」


「妖ってだけで全部と戦ってるほど人間は暇じゃないよ。それに、君は〝違う〟って言ったろ?」


 囲炉裏を背にすると男の瞳はまた青く戻る。底の方まで透けそうな色合いはしかし、あまりにも深く澄んでいて、かえって底が知れなかった。


「君は異形(いぎょう)の目をしてる」


「当然です。僕は、〝戦〟を司る神ですから」


「……神」


 なるほど、それで『賤しいヒトの分際で』か。ひとまずの答えを得て、ヤマトは口を閉じた。神と言う単語を自分の中に馴染ませるようにうんうんとひとり頷くと、立ち上がり、ゆっくりとした動作で、囲炉裏の向こう側の、もと居た丸いわら座布団に戻る。


「それは……失礼しました。そうとは知らず、こんな古びた小屋にお連れして」


「……あなた、信じたのですか?」


「嘘なの?」ヤマトはすぐに、鋭く切り返す。


「いいえ」男もすぐに、短く答えた。曇りの無い表情をしている。


 ヤマトは目つきを穏やかにして言う。


「だったら、問題ないでしょう? 僕としても神様の方が、妖や霊より余程いい」


 ヤマトは齢十六という若さにも関わらず、山奥で独り生きるがゆえの豪胆さを備えていた。そのため、本人が神だというのならその言葉を信じておけばいいと思った。


 正直なところ、目の前の男が妖だろうと神だろうと構いやしなかった。怖くなどない。


 本当に恐ろしいのは、そんなもんじゃない。


 鍋の中の水音が次第に粘着性を帯びてくる。蓋を持ち上げて覗いてみると、米は水を吸い、大きく膨らんでその粒の形をくずしていた。もう少し煮えれば食べられそうだ。


 土間に下りて茶碗を探す。二つ目はどこに仕舞ったんだっけ? 薄桃色の安茶碗を、神様はどう思うだろうか。


 茶碗と箸を二対、それと玉杓子(たまじゃくし)を手に居間へと上がる。鍋から立つ湯気が澱粉の香りを漂わせ始めた。胃が刺激され、忘れていた空腹を思い出す。


「すみません、神様。おかずは大根の漬物しか無いんですが」


「いえ、構いません。それよりも僕の方が、ヒトの貴重な栄養源を奪ってしまって……」


「そんなこと気にするんですね。神様はもっと尊大かと思ってました、最初のあなたみたいに」


「反省しています。下界へ落ちたのは初めてだったので動転してしまい、嫌な言葉を吐きました」


「はは……低姿勢って、なんだか可笑しいの」


 くたくたに煮えた粥を茶碗によそう。少し考えて、自分がいつも使っている紺色の茶碗の方を男に差し出した。薄桃色よりも無難でいいだろう。


 男は囲炉裏越しに手を伸ばし、漬物の乗った粥と木の箸を受け取る。箸は、ヤマトがいつか秋の夜長に枯れ枝から掘り出したものだ。


 ヤマトは男が粥を一口含むのを待って、自分も箸に手を伸ばす。食事のときに誰かがいるという感覚はむず痒い。長らく忘れていたせいで、どうにも相手を意識してしまう。


「おいしいです。あったかい……」


「そうですか。神様のお口に合ってよかったです」


 月並みな答えを返すと男が目をこちらへ向ける。迷うように口が開閉され、やがて控えめな声が生み出される。


「……あの、それ……〝神様〟って、やめませんか? 実を言うと、あまり好きな呼び方じゃないんです」


「へぇ……では何とお呼びすれば?」


 至極自然な流れで問うたはずなのに、男はそれきり口をつぐんでしまった。訊いてはいけないことだったのか? だが、神様と名乗っておいてそう呼ぶなと言う以上、代替案が必要だろう?


 ヤマトも元々お喋りな方ではないので、会話は打ち切られ、黙々と食事は続いた。


 あたたかい粥が胃を満たす。粥ではすぐに空腹になるとわかっていても、この瞬間に感じる生の喜びは、何ものにも代えがたい。



 最期の食事を、誰かととれてよかった。



 ヤマトとほぼ同時、男が茶碗を板張りの上に置く。


「ごちそうさまでした。えっと……親切なヒト」


「ヤマト、と申します」


「ヤマトさん」


「どうぞ、呼び捨てで。あなたのことは〝サクラさん〟とお呼びしてもいいですか? 桜の根元で出逢ったので」


 男は一瞬瞠目し、すぐに目を細めて口元を和らげた。微笑が浮かぶと、儚げな男の姿は艶めかしい色を持つ。目に毒なように思えてヤマトは視線を横に逸らした。


「それにしても」


 不穏な胸の早鐘を誤魔化すように話題を変える。


「神が下界に落ちるだなんて、稀有な話ですね」


「迂闊でした。下界の雪があまりに白かったので、目が惑って雲を踏み誤ったのです」


「それで真っ逆さまにあの桜のもとへ?」


「はい。落ちるのは一瞬でした。気づいたときには全身が痛く、一際足首は灼けつくようで」


 情けないことです、と男は自嘲気味に笑い、白い指を見つめてきゅっと握った。ヤマトは影の落ちた男の横顔を見つめる。落ち込んだ神というのは、見ていて楽しいものじゃない。


 気がつけば口を開いていた。珍しく自分は、饒舌だった。


「運が悪かったのですよ。今が、こんな冬だから」


 男はほんの少しだけ顎を動かして、ヤマトまでは届かないものの、囲炉裏の中に視線を落とした。


「冬……?」


「ええ。春ならば、匂い立つ満開の桜があなたの身体を包んだでしょう。夏ならば、緑鮮やかな葉桜があなたの身体を抱きとめたはずです」



季節を巡るあの樹を想う。姉が愛した桜の樹。独りで眺めて早二年。



「秋ならばきっと、ふわりと軽い紅葉があなたとともに枝を滑り落ち、あなたの身体を落葉(らくよう)の海に抱かせたのですよ。けれど、冬の桜はいけません。鋭い枝を伸ばすだけ。あなたの肌を切り裂いて、白い雪を赤く染めるだけ」


「ならば……」


 男は囲炉裏の火を見ていた。「冬の桜は剣(つるぎ)ですね。ヤマト……あなたがたヒトの持つ」


 男の瞳に小さな嫌悪がちらついた。この神は、どうにもヒトが嫌いらしい。


「サクラさん、剣を持つのはヒトの中でも武士だけです」


「武士は一等嫌いです。彼らは〝鞘を捨てた剣〟そのものですから」


 鞘を捨てた――それは、〝二度とは収められぬ〟の意。


 いつか、誰かが言っていた。



 死地に赴く武士(もののふ)よ。死ぬとわかって戦うならば、重い鞘など捨ててゆけ。剣が最期に眠るのは、血を吸い湿気た土の上。



「僕は、戦の神として過去何千何万の争いを天上から見守ってきました。戦の結末を見届け、朽ち折れた武士(もののふ)の魂のために一輪の花を戦跡に咲かせる……それが僕の使命なのだと割り切って、見たくもない流血を散々目にしてきたのです」


「それは……お気の毒なことです、サクラさん」


「慰めはいりません」


 男はきっぱりと言い放ち、腕に巻かれた包帯をほどき始めた。手つきに迷いは無い。


「何してるんです? もう数日はそうして布を当てておかないと」


「〝私〟は神です。本当は初めから、手当ての必要など無かったのです。ほら」


 囲炉裏の火に照らされた腕はまっさらで美しい。深かった切り傷が見当たらない。男は布団を捲り、足首の手拭いも取り去った。怪我の余韻を残さないその場所に、ヤマトの視線は釘づけになる。


「どうしてですか……?」


「神だからです」


 何でもないことであるように、さらりと言いのける。少々苛立っているようにも見えた。しかし男は、身体中の包帯や当て布をすべて取り払ったところで動きを止め、ふとヤマトに視線を移す。まるで思い出したかのように、その表情は沈んでいく。


「あ……の、すみません。戦の話をしたらついカッとなって……。せっかくの厚意を」


「いえ、気にしないでください。もう治ったというのなら、それでいいです」


 ヤマトは立ち上がり、男の傍に座った。くしゃくしゃの包帯と布を白い手から受け取る。


「今日中に治ってくれてよかった。明日以降、僕はあなたの看病をできそうにないので」


 もらった布を膝の上で畳み直す。そろそろと気遣わしげな視線が寄越され、それに気づきながらも黙っていれば、躊躇いがちに声が掛けられた。


「明日は、何か用事でも? 僕はすぐにでも出ていった方がいいのでしょうか」


 顔を上げると目が合った。


 途端に『どうしてそんな』と疑問が浮かぶ。神だといいながら、どうしてそんな人間くさい……!


「明日は――」


 言いながら手を伸ばし、寝乱れたまま開いている男の肌着の前を合わせ直す。近ければ近いほど色濃く感じる花の香り。思考を奪う、ひどく幻惑的な。


「――少し遠いところに行くんです」


 襟を引っ張るふりをして、首筋をそっと指先で撫でた。絹のようにすべらかな感触だ。男は少し肩をびくつかせ、それを恥じたのか、顔を囲炉裏の方へ背ける。


 ヤマトは静かに身をいざらせて、布団の端に膝を乗り上げた。


「戦の神だなんて……失礼ですけど、似合いませんね。サクラさん、あなたは、そう……桜の精のが合ってます」


「そんなこと、言われても……」


 つうっと指先を滑らせて、男が顔を背けたために晒すようなかたちになった耳の、後ろのあたりをくすぐる。形の良い耳朶をあやし、親指を穴に差し入れるとたちまち短い悲鳴が上がる。


 両手で耳を押さえて振り返った男の顔は、囲炉裏の炎を背にして影になりながらも、まるで火が点いたみたいに赤らんでいた。その中で青水晶の瞳はゆらゆらと揺れ、動揺を如実に物語る。


「なっ……にを」


「ごめんなさい。あなたを見ていたら、なんだか触りたくなってしまって」


「さわッ……? あのっ、ちょっ、退い、て」


 男は、ヤマトがいつの間にか布団に乗り上げていることにようやく気づき、困惑しているようだった。上体を反らして少しでも距離を取ろうとし、片手を持ち上げ、ヤマトの視線を遮る。そしてもう片方の手が、追い詰められるようにして、背後で熱く燃える囲炉裏の、縁に掛かる。


「危ないです。火傷しますよ。怪我が治るといっても、痛みを感じないわけじゃないんでしょう?」


「でもッ」


「〝ヒト〟が怖いですか?」


 ヤマトは囲炉裏の縁に掛かった男の手を掴み、力を入れて引き寄せた。支えを失った男の身体は、押せば簡単に布団へ沈む。顔の横に手をついて逃げ道を封じ、もう一度、神の御心に問いかけた。


「争い合う〝ヒト〟が怖いですか?」


「……はい」


「血を流し、剣を握り、志半ばで地に伏す〝ヒト〟を、愚かしいと思いますか?」


「おもい……ます」


「では、戦って死ぬ〝ヒト〟は最期に何を想うのでしょう?」


 男は目を逸らさぬまま、きつく口を閉じていた。思案の間をおいて、ゆっくりとその唇が形をつくる。


「〝無念だ〟と……敵を恨むのではないですか?」


 予想通りの答え。それゆえにおかしくて……哀しい。


 ヤマトは口元に笑みを乗せ、囁きかけるように言った。



「確かに、死ぬとわかった瞬間には敵を恨みもするでしょう。でもね、サクラさん。〝ヒト〟が最期の最期に想うのは、愛するもののことなんですよ?」



 僕は明日、戦地に赴きます。二度とは帰らぬ覚悟です。


 二年前に名ばかりの同盟のため、多くの若い女性たちが隣国へ嫁がされました。いや、嫁ぐなんて聞こえの良いものではありません。その実は、性奴隷です。


 どのような扱いを受けるかは誰もがわかっていることでした。けれど、この小国の土地や民を守るため、僕たちは一部の女性を犠牲にせざるを得なかった。売ったのですよ、自分たちの安寧と引き換えに。


 若く美しかった姉もそのうちの一人でした。嫁ぐ前夜、誇り高い彼女は言ったんです。



『これが女の戦いなのよ、ヤマト。私は戦って戦って……命尽きる寸前まで敵を憎み続けるわ。でも最期の最期には、あなたを想うから。あなたを想って、私の心は桜のもとへ帰ってくるの』



 ひと月前、この国を治める領主に宛てて隣国から文が届きました。そこには重い年貢の催促に加えてたった一行、まるでついで書きのように、二年前に嫁いだ女性たちの最後の一人が今年の秋の暮れに命を落としたと書かれていたそうです。


 そして先日、領主のもとに、新たに女性たちを献上するようにとの文が寄越されました。


「国の男たちは誓ったのです。もう二度と、守るべき女性(ひと)を犠牲にはしないと。彼女たちだけに戦わせはしない……! そうして……女子どもや老人を、南へ旅立たせました。それもまた戦いです。生き抜くための、過酷な旅です。


 残った僕たちは明日の早朝、隣国へ奇襲をかけます。夜明けの太陽を背に進撃すれば、照りつける陽光はいい目くらましとなるでしょう。奴らの応戦の矢も当たりにくいはずです。


 そこで僕たちは命の最期まで戦い抜くと決めました。たとえ一国滅べども。家々が焼き払われ、すべて雪原となろうともッ……



誇りと愛を掻き抱いて、その雪原に眠ろうと!」



 気がつけば、組み敷いた男の瞳の縁には珠が膨らんでいた。透明で美しく、触れれば熱いのだろうと思った。限界点まで張りつめるとそれは、音も無く崩れてこめかみを伝い落ち、白銀の髪に呑み込まれて消えた。


 ヤマトは、温度を殺した眼差しでじっとその様子を眺めていた。静かな感情が、願うように、祈るように、舌の上に言の葉を置く。


「僕たちはそうすることで、二年前に失った〝ヒト〟の心を取り戻せるでしょう」


「そ、れで……ヒトとして死ねれば、あなたは……満足なのですか……?」


「きっと、他のどの道を選択するよりも」


「そんなの……理解、できるわけッ!」


 男の手がヤマトの胸倉を掴んだ。ヤマトはしかし、ぴくりとも表情を変えなかった。


 磨き上げられた矢のような視線のぶつかり合う先、相手の瞳の奥に、相手の意志が、強く燃えている気がした。それは決して消すことのできない炎だ。


 すべての〝死〟への狂おしい非難。すべての〝生〟への狂おしい未練。


 すべての〝ヒト〟への、狂おしい愛……。


「ヒトは――」


 長い間そうしていたような気がする。やがて男の手は力を失い、ヤマトの襟にただ縋りつくだけになった。男はかすれた声で言う。


「――すぐに死んでしまう。少し血が出れば、すぐ。……怖いです。まるで雪が溶けてしまうよう……。あんなにたくさん、たくさんッ……降るのに……っ! 綺麗だと思った瞬間に、そのひと粒が消えてしまうッ……」


 嗚咽が、雪国の小屋に空しく響いた。外は凍てつく寒さなのに、この場所は今は、今だけは、季節を忘れていた。


「そうか……だからあなたはヒトが怖いのですね。神であるあなたからすれば儚すぎる命だから。そんな命たちが争って、さらに命を縮めるから」


 濡れそぼる男の頬に手を置くと、ヒトと同じくあたたかだった。男は目を閉じ、手のひらに擦り寄ってくる。


 消えてしまいそうな声だった。雪が舞い落ちる音のように、本当に小さく大気を震わすだけの。けれどそれは、心の奥底を掻き乱す、狂おしいほど甘やかで切ない、春の雪融けの言葉であった。



 せっかく……すき、に……なれた……のに……


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