――薄衣(うすぎぬ)いちまいでは寒かろう。
白銀世界に乾いた音が立つ。降りしきる雪より凍てつく青水晶が二つ、冴え冴えとヤマトを睨み上げた。
「気やすく触れるな。賤しいヒトの分際で」
裸の桜の根元で、手傷を負い白絨毯に伏せながら、気高き男の精神は他人(ヒト)を拒んでいた。
雪によく似た銀色の髪、痛みのせいか微かに紅潮した頬、抜けるように色素の薄い肌を包むのは、白襦袢一枚だけ。その裾からしどけなくあらわになった足首は赤黒く腫れている。
絵に描いたように儚げな男。それがこの傷で下山をするなんて不可能だ。そう判断し、ヤマトは先ほど打ち払われた手を再び差し伸ばす。
「うちにおいでよ。手当をしてあげる」
邪心など微塵も無い。ただ、そうして然るべきだと、そう思うだけだった。この世はささやかな助け合いでできている。
けれどヤマトの善意は伝わらず、鮮血を吸ったような唇からは、鋭利な言葉が吐かれるばかり。……なるほど、手負いの獣とは、用心深くなるものだ。獣というには線が細く、弱々しいなりをしている男だが。
降雪は夜に向けていよいよひどくなりそうだった。救済を拒む男にしばらくは根気強く話し掛けていたヤマトだったが、やがて埒が明かないと溜息をつき、わら編みの深靴を一歩前に歩み出す。
「寄るな!」
「どうして?」
簡素な唐傘(からかさ)を差し掛けると、その影のもと、青い瞳に怯えが走った。男は寒さか恐怖かで震える細い手で襦袢の胸をかき合わせ、雪の上をいざって身を離す。
やがて背中が桜の幹に当たって止まる。ヤマトは傘を置き、着ていた綿入れ半纏(はんてん)を脱ぐ。たちまち身を切るような冷気に襲われた。身震いをし、半纏を手にもう一度ゆっくりと男に近づく。
青い瞳は揺れていた。
この雪国で、男の吐く息はすぐさま白く煙ってのぼりゆく。のぼったそばから凍り、冷たい雪となって舞い落ちてくるようだ。
薄衣(うすぎぬ)いちまいでは寒かろう。
屈みこんで半纏を着せ掛けると、睨むようにしていた男の目は伏せられ、長い睫毛が目元に薄い影を落とした。もう振り払う元気も無さそうだ。男は大人しく半纏にくるまっている。
「ヒト……なんかに、助けてもらわなくたって……」
「人間嫌いなんだね。君はもしかして、妖(あやかし)?」
「ち、が……」
男の呼吸はか細かった。頬の赤みが増している。試しに額に触れてみると、発熱していた。
「立てそう? 僕の家、すぐそこなんだけど」
「いら、ない……! あっち……行って」
肩を支えて立たせようとしていた腕を、押し退けられる。それでも、ここまでしておいて今さら捨て置くわけにはいかなかった。凍死されたなら、寝覚めも悪い。妖だろうが、なんだろうが。
肩に担いでいこうか、と、掛けた半纏の上から脇腹に手を差し入れる。
「触っ……な! ……トの、くせ……」
「心配しないで。たぶん、僕はヒトじゃない」
持ち上げた身体はまるで綿雲のように軽かった。見かけなりの重量だろうと覚悟していたぶん、込め過ぎた力が手に余って、よろりとなる。米俵みたいに肩に担ぐと男は少し暴れたが、すぐに諦めたらしく、ぐったりとして喋らなくなった。空いた手で唐傘を拾い上げ、今は独りで暮らす貧しい家へと足を進める。
さく、さく、と雪を踏む音以外には何も聞こえない。この山奥では隣家でさえほど遠い。背中で消え入りそうな声が「ヒトは怖い」と言った。それはほとんど空気のような呟きだった。聞かなかったことにもできたのだが、ヤマトは答えることにした。誰かと喋ることが久しぶりだったせいかもしれない。
口を開いてしまえば、誰にも言えずにいた罪咎(ざいきゅう)が自嘲のように飛び出した。
「大丈夫、僕はもうヒトじゃないから。姉を売った僕が、ヒトであるはずがない」
雪はいっそう大粒になった。それでもいつかの誰かの涙のように、音も立てずに落ちていくだけ。
寂しい処(ところ)には鬼が棲むという。だからね、そんな場所には近づいちゃだめよ、といつか、誰かが言った。しかし、この世に、初めっから寂しい場所なんてあるだろうか。人も獣も踏み入らない洞窟の奥で、岩の裂け目から射し込む一筋の陽光を頼りに咲く一輪の花だって、それはとても凛としていて美しいものではないか。決して寂しい光景なんかじゃない。
だから、違うのだ。いつの日か、その場所が寂しい場所に成り果てるとしたら、それは、鬼のせいなのだ。
鬼がぜんぶ悪いのだ。
僕みたいに、とヤマトは思う。貧しくも温かく、人並みに幸せだった家を、貧しいだけの寂しい場所にしたのは自分だった。
肩の上のささやかな重みを担ぎ直す。その振動を嫌がるように男が身を捩った。途端に鼻腔をくすぐる華やかな香り。春の朝、露を含んで膨らんだ蕾が咲き零れる瞬間のような、瑞々しく鮮やかな芳香だ。
彼は花の精霊だろうか。だったらいいのにな。
雪国の春は遥かに遠いというのに、頭の片隅でふと、夢物語を思った。