明治時代。西洋の文化が急速に流入し、街並みや服装が一変していた時代。着物に代わり、洋装が流行し、街を歩く人々の姿がこれまでの日本とは異なるものに変わりつつあった。その変化を肌で感じるのは、京都の街に住む有美であった。
有美は、15歳という若さでありながらも、その鋭い目と洞察力で周囲に知られる存在だった。日々の暮らしの中で、彼女は何かが変わりつつあることを感じ取っていた。西洋の衣服をまとった人々が増え、外国の書物や言葉が飛び交い、街はまるで別の世界に変わったように思えた。
有美の家は、古い木造の建物で、屋内にはまだ昔ながらの家具や調度品が整然と並べられていた。家族は、父・耕一郎と母・加奈子、それに有美の二人の兄、太郎と信一郎がいる。彼らの生活は、どこか静かながらも、時折襲う不安や焦燥感に包まれているような気がした。
その日、家に一通の手紙が届いた。差出人は知らない名の人物からで、ただ一言、「あなたにとって大切なものが届きました」と書かれてあった。手紙と一緒に同封されていたのは、まるで古い写真のような、一枚の写真だった。
有美はその写真を手に取り、じっと見つめた。その写真には、洋装をした四人の人物が映っていた。彼女はその中に、自分の家族がいないことをすぐに理解した。だが、その中に一人、見覚えのある顔があった。それは、亡くなった母親の妹、つまり有美の叔母に似ている人物だった。だが、奇妙なことに、彼女が着ている洋装は、明治時代のそれとは少し異なり、まるで異国の地で撮影されたかのような雰囲気を醸し出していた。
「これは……一体、誰なんだろう?」
有美は写真をじっと見つめるが、その人物がどこかで見たような気がしてならない。心の奥底で、何か引っかかる感覚がある。しかし、すぐにその気持ちを振り払って、写真を手に取ったまま家の中を歩き回る。
「お母さん……」
有美は母親の加奈子に尋ねるつもりで、部屋の扉を開けようとした。しかし、足を止める。彼女が何を尋ねようとしているのか、その答えが見つからない気がしたからだ。母親はすでにこの写真について何か知っているのだろうか。それとも、知らないのだろうか。
有美はそのまま、写真を胸に抱えたまま、しばらく無言で立ち尽くしていた。
その翌日、有美はもう一度その写真を手に取り、家族の誰かに聞くべきだという思いを強く抱いていた。家の中では、父が仕事で出かけている間、兄たちは学校に出かけていたため、今がその時だと思った。
有美は写真を持って母親の元へ向かった。加奈子はいつもどおり、庭先で花を手入れしていた。彼女は、少し年を取ってきたが、相変わらず優雅で落ち着いた様子だった。
「お母さん、これ、見て。」
有美は母親に写真を差し出すと、加奈子はその写真を静かに受け取った。最初は無言で写真を眺めていたが、やがてその表情がわずかに固まるのを有美は見逃さなかった。
「これ、どこで見つけたの?」
「昨日、家に届いた手紙の中に入っていました。差出人は……誰だか分からない人からだったけれど、この写真に写っているのは、私たちの家族じゃないですよね?」
加奈子はその問いに対して、少しだけ目を伏せてから答えた。
「…そうね、これは確かに私たちの家族ではないわ。ただ、見覚えがあるような、ないような。」
有美の目は鋭く光り、その瞬間、母親の言葉に違和感を覚える。それは母親が写真に映った人物を知っているような、何か隠しているような、そんな雰囲気だった。
「お母さん、この写真の人、誰なの?」
加奈子は沈黙を続け、しばらくその写真を見つめていた。やがて、ため息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「これは、あなたの叔母さんよ。でも、この写真は…」
「叔母さん?」
有美は驚き、その目を大きく見開いた。だが、母親は続きを話す前に、また静かなため息を漏らした。
「あなたの叔母さんは、もうずいぶん前に亡くなったのよ。だから、この写真が送られてきた意味がわからない。」
有美はその言葉を聞き、何かを感じ取った。母親が何かを隠している。いや、正確には母親もその謎に巻き込まれているのではないかと思った。
「お母さん、もしかして、この写真に隠された何かがあるんじゃないですか?」
加奈子は再び沈黙を守った。言葉を失った母親の姿を見て、有美は確信を持った。それは、ただの偶然ではなく、何か重大な秘密がこの写真には隠されているのだろう。
有美は心の中で、これから自分が何を探し出さなければならないのか、その道筋を感じ取っていた。そして、この家族に隠された過去の謎に近づいていく予感がした。
有美は母親の答えに納得がいかないまま、しばらく静かにその場に立っていた。加奈子の視線はどこか遠くを見つめており、何かを思い出すかのように目を細めている。これまでの穏やかな生活の中で、母親がこんなにも言葉を濁したことはなかった。
「お母さん、本当に…それだけで終わりなの?」有美は静かに尋ねた。彼女の声には、少しの怒りとともに、母親に対する疑問が込められていた。
加奈子は少し驚いたように有美を見つめ、その後、ゆっくりと立ち上がった。庭の草花が風に揺れ、彼女の髪の端が静かに動く。その姿は、まるで過去に縛られたかのように見え、有美はその後ろ姿に強い不安を感じた。
「有美、あの写真を…それ以上掘り下げない方がいい。」加奈子の声は、どこか痛みを含んでいるようだった。
「でも、どうして?」有美は少し前に出て、母親の目をしっかりと見据えた。「私たちの家族でもない人が写っているのに、どうして知らないふりをするの?」
加奈子はその言葉を受けて、しばらく沈黙していたが、やがて静かに話し始めた。
「その写真に写っている人は、確かにあなたの叔母、私の妹だった。でも…その妹はもう、この家を出てから戻ることはなかった。」
有美はその言葉に驚いた。叔母が家を出て戻らなかったという事実に、彼女は何かしらの事情があったのだろうと感じ取る。
「なぜ戻らなかったの? 何かがあったんじゃないの?」有美はさらに掘り下げようとするが、加奈子はその質問に答えようとはしなかった。
「それ以上聞かないで、有美。」加奈子は低い声で言い、そのまま部屋に向かって歩き始めた。「今は、もう過去のことよ。」
有美はその後ろ姿を見つめながら、心の中で何かが引っかかっていた。母親が語らない理由が、明らかにある。だが、それを無理に引き出すことはできない。彼女はその場で立ち尽くし、数分間その思いを整理していた。
その夜、有美は再び写真を手に取った。部屋の薄暗い灯りの下で、その写真をじっくりと見つめる。洋装をした四人の人物。そのうちの一人、母親の妹に似た女性は、まるで西洋の絵画から飛び出したかのような、異国情緒あふれる姿で写っている。
「何があったんだろう?」
有美はその疑問を自分に問いかけながら、写真をじっと見つめ続けた。何かが彼女の心の中で引っかかり続けている。母親が言うように、過去のことだとしても、なぜ今になってその写真が届いたのか。その意味は何か?
その瞬間、ふと写真の裏側に何かが書かれているのに気づいた。有美は驚いてその裏面を見た。そこには、かすかに読める文字が書かれていた。それは、英語で何かの名前とともに、日付らしきものが記されている。
「…これは?」
有美はその文字をしばらく見つめ、記されている名前を読み上げた。それは「アリス・ヘイリー」という名前であり、日付は西暦1887年と書かれていた。
有美は思わずその名前に目を見開いた。アリス・ヘイリーという名前には、どこかしら聞いたことがあるような気がした。そして、その日付が記されていることも、何か意味があるのだろう。
「アリス・ヘイリー…」
有美はその名前を呟きながら、何度も頭の中で反芻した。彼女は、この名前をどこかで聞いたことがあるはずだ。しかし、どこで? そして、なぜこの写真に書かれているのか。
その時、部屋の外から足音が近づく音が聞こえ、有美は急いで写真を元に戻した。母親の気配が近づいているのだ。
有美は、写真の裏に書かれた名前と日付の意味を突き止める決意を新たにした。そして、母親に隠された秘密が、この名前とどう関係しているのかを解明するために、これからどんな手がかりを追い求めるべきかを考えた。
その夜、有美は再び眠れぬ時間を過ごすことになった。心の中で疑問と不安が渦巻きながらも、彼女は確信していた。この謎は、ただの偶然ではなく、きっと何か大きな真実が隠されているのだと。
有美が眠れぬまま朝を迎えると、家の中はいつも通りの静けさに包まれていた。父の耕一郎は仕事に出かけ、兄たちは学校に行っていた。唯一、母親の加奈子は家にいたが、その表情は昨日と変わらず、何かを抱え込んでいるような深い沈黙が漂っていた。
有美は食事を済ませると、再びその写真を手に取った。アリス・ヘイリーという名前が頭から離れない。彼女がどこかで聞いたことがある名前だと感じるのはなぜだろうか。以前、誰かからその名前を聞いた気がするが、それが何に関連しているのか、有美は思い出せなかった。
しかし、写真の裏に書かれた英語の名前と日付が、彼女に一つの考えをもたらした。それは、単なる偶然ではなく、何か大きな意味があるという直感だった。アリス・ヘイリーという名前が示すものは、きっと過去に繋がる何かだろうと有美は感じた。
「お母さん…」
有美は決意を固め、加奈子にもう一度尋ねることを決意した。昨日の会話では母親が何かを避けるように話していたが、今度はもっと深く突っ込んでみようと思った。母親が知っていること、そして隠していること。それが何か、知る必要があると感じていた。
有美は足音を立てないように、静かに母親の元へ向かった。庭先で花を手入れしている加奈子の姿が見える。昨日と同じように、静かに手を動かしている。
「お母さん…」
有美は声をかけると、加奈子はゆっくりと顔を上げた。見慣れた母親の優しい顔がそこにあったが、その目はどこか遠くを見つめているようで、どこか悲しげだった。
「どうしたの、有美?」
加奈子は優しく微笑んだが、その微笑みの裏に隠された不安を有美は感じ取った。
「昨日の写真…もう一度聞かせて。叔母さんが家を出て戻らなかったって言ってたけど、その理由を教えて欲しい。」
有美は母親の目をじっと見つめながら、言葉を続けた。「それに、アリス・ヘイリーという名前、何か知っているんでしょう?」
加奈子の顔に一瞬、驚きの表情が浮かんだが、すぐにそれを隠すように、再び冷静な表情に戻った。
「アリス・ヘイリー…それは、あなたの叔母が使っていた偽名よ。」加奈子は低い声で言った。その言葉に、有美は息を呑んだ。
「偽名…?」
「そう。」加奈子は静かに頷き、手を止めて有美に向き直った。「あなたの叔母、雅子は若いころ、どうしても家を出たかった。家族の反対を押し切って、彼女は西洋に渡り、新しい人生を始めたの。でも、そこには多くの秘密があった。」
有美はその言葉を噛みしめるように聞いていた。母親が語る「秘密」こそが、まさに有美が探し求めていたものだった。
「西洋に渡った叔母さんは、アリス・ヘイリーという名前で別の人生を生きていた。彼女が戻ることは二度となかった。私たちはそれを黙って受け入れたの。」加奈子は目を伏せ、少し寂しげな表情を浮かべた。「でも、それが私たちにとってどれほど辛いことだったか…あなたには分からないでしょう。」
有美はその言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。叔母が家を出ていった理由、それがどうしても知りたかった。けれども、母親が語った言葉の中には、まだ完全に解き明かされていない部分があった。
「お母さん、叔母さんが家を出た理由、そしてアリス・ヘイリーという名前の背後にある真実を知りたい。私にその答えを教えて。」
加奈子は深いため息をつき、しばらく沈黙した後、再び口を開いた。
「…雅子はただの自由を求めていたわけではなかった。彼女は、西洋で何かを背負い込んだ。あの名前には、彼女が関わったある人物の影響が色濃く残っていたの。あなたが想像する以上に、深い関わりがあった。」
有美はその言葉に驚きながらも、同時にその秘密を知りたいという思いが強くなった。叔母が西洋で何をしていたのか、その人物とは誰なのか。すべてが気になって仕方がなかった。
「その人物は誰なの?」
有美が質問を投げかけると、加奈子は一瞬躊躇したが、やがて低い声で答えた。
「それは…もう話せない。」
その答えは、有美にとっては決定的なもので、すべての疑問が再び深まった。母親の口から出た言葉の裏には、まだ解き明かされていない多くの秘密が潜んでいる。
有美はその場を離れ、写真を手に取りながら、決して引き下がることなく、この謎を解き明かす覚悟を新たにした。
第2章終