「進、悪いけど、ここから先は私一人で戦うわ」
私はブーツを脱ぎながら、進にそう告げた。
進の目が見開かれる。驚きと、ほんのわずかな悔しさが混じった表情だ。彼の拳はまだ震えていた。
酷だけど、このレベルの戦いだと足手まといになるからだ。
「サクラ、俺はまだやれる!」
「いや、もう分かってるでしょ? 今の進じゃ、かえって足手まといになる」
「……分かった。お前に任せるよ」
「大丈夫。進の想いも背負って戦うからさ」
「ウダウダとうるさい奴らだな。来ないなら、こっちからいくぞ!」
フィリアーネの足元の床が軋んだかと思うと、一瞬で間合いを詰めてくる。その速さに、思わず息を呑んだ。
激しい突きと蹴りが私を襲うが、さっき重りを捨てたことで身軽になった私には当たらない。
だが、それは私の攻撃も同じだった。
互いに攻撃を繰り出していたが、どちらの一撃も決定打にはならなかった。
これは完全に予想外だった。宇宙は本当に広いんだな。
額にじんわりと汗が滲み、全身が軽く火照っている。これほどの戦いは、そうそう経験するものではない。
「なかなかやるわね。私と互角だなんて……あんたみたいに強い人、初めて見たわよ。」
「互角か……それはどうかな。それにしても、全く同じことを考えているなんてな」
フィリアーネはそう言うと、袖を捲り上げた。
あれは……まさか……重り!?
ズシリと鈍い音を立てて、重りが床に落ちた。
「そ……そんな……」
信じたくない光景を前に、思考が一瞬止まる。あの重りのせいで、私はさっきまで互角に戦えていたのか……?
私が思わず後ずさってしまったその瞬間、フィリアーネの前蹴りが飛んできた。
全く見えない!
異次元の速さだ……。
「サクラ!」
「なんだ、もう終わりか? まだまだ楽しませてくれるわよね?」
うう……。
あまりの衝撃に意識が飛びそうになった。
呼吸を整えろ、血液を全身に回せ、体温を上げろ!
「うおおお!」
進の声がする。
ダメだ、こいつはヤバい。絶対に手を出すな……。
バキッ、ドゴッ、バシッ……。
人を殴る音が聞こえてきた……。
「お前、もう終わりか? 」
「さ、サク……ラ……逃げろ……」
進……。
私を助けるために……。
「進を……離せえええ!」
全身を駆け巡る血潮が、まるで燃え上がるようだった。視界の端に映る進の姿が、一瞬歪んで見えた。
初めて体験する感覚だけど、体が異常に軽い!
私の旋風脚がフィリアーネの体を吹き飛ばした。
よし、当たる!
進は?
よし、大丈夫だ。ぐったりとしているが、息はしているようだ。
フィリアーネは体を捻り、態勢を整えると私に向かってきた。
再び、私と激しく殴り合うが、今度はさっきと違う。
自分でも信じられないほどの集中力で、フィリアーネの動きを追うことができた。
「そうだ、その調子だよ。これくらいで死んでもらっては困る。もっと楽しませてくれ!」
フィリアーネの目が細められる。その奥には、まるで新しい玩具を見つけた子供のような興奮が滲んでいた。
彼女は戦いを楽しんでいる? それとも私を試しているのか?
このフィリアーネという女、やはりとんでもなく強い。また一段階ギアを引き上げてきやがった。
まいったな、勝てるイメージが全く浮かばない。そのスピードとパワーになんとか対応するだけで精一杯だ。
5分を超えた頃から、徐々に押され始めた。
こいつ……スタミナも化け物か!
このままじゃ、押し負けてしまう。
最後の手を使うしかないか。
私はプロテクターのポケットに入っている小さな注射器を取り出した。
これは、万が一に備えてハカセが合成した薬だ。『ツヨクナール』とかいう、ハカセの絶望的なセンスで名付けられたのが惜しい逸品だ。
一時的に身体能力を高めることができるのだが、要は未来のエネルギーを借りるようなものなので、効果が切れた際には全く動けなくなってしまう。
できるだけ使いたくはなかったが、そうは言ってられない状態だからね。
戦いながら注射を打ち込むと、体が熱くなるのを感じた。
視界もいつもと違う。全てスローモーションになったかのように見える。
「フィリアーネ!」
私は大声で叫びながら、攻撃を繰り出す。
踏み込んだ瞬間、地面がひび割れるほどの衝撃が走る。今の自分には、まるで重力がなくなったように感じられた。
これまで私の攻撃を平然と受け続けていたフィリアーネの顔色が変わる。
「お前! 薬を使ったな……」
「知るか! どんな手を使ってもお前をここで倒す」
「ぐあっ」
私の攻撃はガードの上からでもダメージを与えているようだった。
フィリアーネは攻撃を受けるたびに弾き飛ばされ、見る間に傷が増えていった。
あと少し、あと少しだ……。
フィリアーネは口元を赤く染めながら、ついに片膝をついた。
よし、これでトドメだ!
渾身の蹴りを繰り出そうとした瞬間、全身から力が抜け、私は床に崩れ落ちた。
「あと少し……あと少しなのに……」
「薬なんかに頼るからだ……お前を見損なったよ」
フィリアーネは哀れな目で私を見下げた。
私は……体に残っている僅かな力を振り絞り、重い体を引きずるようにフィリアーネへ向かっていった。
腕が鉛のように重い。視界の端が黒く染まり始めている。それでも……まだ、私はなんとか立っている。
「あと一撃……」
パスンッ。
私の最後の一撃は、間抜けな音を出した。
フィリアーネはその最後の一撃を避けることなく受け止めた。もちろん、ダメージなんて一切ない。
その一撃と引き換えに、私の体は完全に力を失った。
「勝負あったようだな。この勝負を薬なんかで終わらせたことを後悔させてやる」
フィリアーネは無造作に私の体を蹴り飛ばした。
私は受け身を取ることもできず、ただ部屋の中を転がった。
私は最後の力を振り絞って、最後の言葉を発した。
「ハ……カセ……150番……」
意識が闇に沈んでいく。遠のく視界の向こうに、フィリアーネの顔が消えたことを確認した。
これで……終わりだ。