「……事前に一度でもピアノと合わせをしたいと、私から申し出るべきでした」
三喜雄が言うと、野積はすぐに否定した。
「もし仮にそうされていたら、おそらく植村氏は、片山さんと自分の演奏が釣り合わない現実を突きつけられただけだったでしょう」
野積の断言に三喜雄は驚く。彼は続けた。
「横響との録音の直後に、実はコラボチームは、ピアニストを代えたほうがいいんじゃないかと一度話し合ってるんです」
三喜雄はやや混乱しつつ、野積の説明を聞く。それはおそらく、ドーナツマスターのマル秘事項にあたる内容だった。
総合企画部と広報部は、「菩提樹」を弾くピアニストの候補を数人挙げて選定に入っていたが、経営上層部が、私立の音大を卒業して4年目の植村忠明を使ってやってくれないかと突然言ってきた。
植村はドマスの大株主の一族に連なる人間だという。ドマスが歌手を公募していることを知り、上層部に話を持ちかけてきたらしい。しかし植村は、学生時代は国内のコンクールでの入賞や、卒業演奏会への出演などの実績があったが、卒業後の動向が全く不明だった。歌手を厳しいオーディションで選んでいるのに、ピアニストの現在の実力を証明するものが一切無いことに、野積たちは疑問を抱いた。
広報課長の苅谷は、タレント養成所に所属していたことがあり、数回ミュージカルの舞台を経験していた。業界のオーディションや本番の現場を良く知る彼女は、「魔笛」の収録時にやってきたフォーゲルベッカー日本法人の面々、特にノア・カレンバウアーが、三喜雄やオーケストラに熱く鋭い目線を注ぐのを見て、感銘を受けたと同時に危機感を抱いた。
実績が皆無の、コネで選ばれたピアニストが、カレンバウアーのお眼鏡にかなうとは思えない。また片山三喜雄がカレンバウアーの少しのアドバイスで、数倍良い演奏を披露してみせたのは、彼の経験値やポテンシャルが高いからだ。こんなハイレベルな現場に経験の浅いピアニストを連れていけば、思うような収録ができず、フォーゲルベッカーがドマスに不快感を示す可能性もある。それはまずいのではないか。
野積はプロジェクトの責任者の名において、ピアニストを代えると、植村をねじ込んできた者たちと社長に告げようとした。まさにその時、植村が倒れたという一報が入ったのだった。
「濱さんが伴奏をしてくださって、CMも良いものになり、少なくとも私は万々歳だと思っています……これは、この仕事を逃して悲観したかもしれない植村氏への同情とは、全く別の話です」
野積の口調は、きっぱりとしていた。三喜雄は彼の顔を見ながら、これがビジネスなのだと思う。もちろん三喜雄も、どんなピアニストが来ても歌うつもりでいたものの、濱涼子が弾いてくれて本当によかったと思っている。誰にとっても、完成度の高い音楽を確実に提供するためのベストの選択だったのだ。
「ですから片山さんが気になさることは、何もありません……朝一番にこの顛末の詳細を、私と社長の名前でカレンバウアーCOOにも報告しましたけれど」
三喜雄はカレンバウアーの名に軽くどきりとして、野積の言葉の続きを待つ。
「返信で植村氏へのお悔やみを述べてらっしゃいました、でも両社のプロジェクトチームと片山さんと濱さんは、彼の死に何らかかわりは無いということを、厳密に確認しておきたいということでした」
無論、野積とカレンバウアーの言う通りだった。どこをどうほじくっても、三喜雄たちに責任など無い。ただ、野積もおそらくそうなのだろうが、後味の悪さは拭えなかった。
「ありがとうございます、事実が今はっきりしてよかったと個人的には思います」
三喜雄は野積に、少しかすれた声で思う通りを告げた。そう、植村のことは、避けようの無い不幸だった。
野積も軽い緊張を湛えていた表情を、少し緩める。
「株主に迫られたとはいえ、我が社の上層部が演奏家の選定に結果的に誤った関与をした話も、フォーゲルベッカー側に正直に伝えました……コラボ商品は今回限りだと言われても仕方がないと覚悟しています」
この辺りに関しては、三喜雄はどう返せばいいかわからなかった。力を持つ人間の横暴が傍迷惑な結果を引き起こす場面は、音楽の業界でも見られるが、今回のような場合、誰かが責任を取るべきなのだろうか。