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6月 34

 その後三喜雄には次々と来訪者があり、学校に出勤するより余程気を遣った。

 警察の後にやってきたのは、目の下にクマを作り、憔悴した様子のマンションの管理人だった。彼は三喜雄にお見舞いを言ってから、こんなことになる前に、うえむらさんに出て行ってもらうべきだったと嘆いた。

 あの部屋のピアニストはうえむらといったらしい。マンションに引っ越した時、三喜雄は両隣と上下の部屋にしか挨拶に行かなかったので、噂話を聞くばかりで、遂に斜め下の住人とは顔を合わせることが無かった。

 管理人は嗄れ声で話す。


「亡くなられたので、こんな言い方はしたくないんですけれどね」

「わかります……私も気の毒に思いますけど、家に戻れないのは恨めしいです」


 三喜雄の部屋は、警察官から聞いた通り、ダイニングと洗面所の床が一部めくれ上がり、足を怪我する恐れがあるという。管理会社が三喜雄を含む、とばっちりを受けた住人に同情を示していて、代わりの部屋をできる限り探す方向で動いてくれているというのは、ありがたかった。


「田町のホテルにチェックインされてから、マンションに来て無事なお荷物を持ち出してください……こんなことになって本当に残念です、申し訳ありません」


 管理人の目尻の皺に涙が溜まる。この人には火事に対する責任は一切無いのに、こうして入院中の住人に順番に謝っているのだ。年齢が年齢だけに、気の毒だった。


「管理人さんのせいじゃないです、どうか無理なさらないでくださいね」


 三喜雄は思わず、自分より少し背の低い老人の肩に手を置き、そっと撫でた。彼は三喜雄の目を見つめてから、ありがとうございます、と言って涙を拭い、帰って行った。

 続けてやって来たのは、株式会社ドーナツマスターの企画部長の野積だった。所謂クールビズスタイルの彼は、2度の録音の時よりもくだけた雰囲気だった。

 野積は三喜雄がラフな恰好をして、普通に歩いてきたのを見てやや驚く。


「一酸化炭素中毒で搬送と聞いて、フォーゲルベッカーさんから話はできる状態だと連絡があるまでは、コラボチーム一同気が気でなかったです……お元気そうでほっとしました、深田も連絡を遠慮しているようなので」


 ドマスの社員たちにこんなに心配されていたのに、せめて深田にRHINEすればよかったと三喜雄は反省した。いや、もしベッドに寝たままだったら、より心配をかけてしまうところだが。


「深田くんにも後で連絡します、ご心配をおかけしました……もう退院できると思います」

「よかったです、手は? 火傷ですか?」


 野積が自分の左手を見つめているので、三喜雄は何でもないように答えた。


「いえ、軽く捻挫しました」

「ああ、お大事にしてください……本当に後味の悪いことになりましたね……」


 野積と三喜雄は同時に小部屋の椅子を引く。確かに後味が悪い火事ではあった。

 野積はすっと声を潜めた。


「万が一マスコミが片山さんに何か尋ねてきても、知らぬ存ぜぬで対応してください……片山さんはあのピアニストの顔も、下の部屋に住んでいたこともご存知無かったんですよね? ですから全く無関係です」

「……はい?」


 知らぬ存ぜぬで対応するという野積の言葉の意味がわからない。三喜雄は思わず、首を傾げた。野積は目を見開く。


「あっ、もう名前も覚えてらっしゃいませんよね、当然です」


 野積の、焦りを感じさせる作り笑いが引っかかった。三喜雄は彼の顔から目を離さず、記憶の引き出しを開き慌ててひっくり返す。どういう意味だ、火を出したピアニストとドマスと俺は繋がっているのか。うえむら、と管理人は言ったけれど……。

 その時、三喜雄の脳内で何かがぱちっと接触して、人の名前が閃いた。

 植村うえむら忠明ただあき。「菩提樹」の伴奏をする予定だったピアニストの名だ。思わず、あっ、と声が洩れた。野積がそれを見て、念を押すように言う。


「片山さんが気になさることはありません、植村氏がインフルエンザにかかったのも、あの時録音の延期ができなかったのも事実です……代役を探すのは当然でした」


 野積の言いたいことはわかる。あの仕事を失ったことだけが、植村の悲しい行動の理由ではないだろう。2年半前に三喜雄があのマンションに入居した当時から、彼は騒音住人だったので、既に精神的に不安定だった可能性が高い。とはいえ、全く無関係と言い切るのは、あまりに冷酷に過ぎる気がした。


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