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6月 33

 嫌な感覚を抑えつけながら、三喜雄は説明した。


「下の階の非常扉から出てきた2人が、逢坂さんのヴァイオリンを持ってくれて、ああ……煙を吸ってはいけないからとマフラータオルを私に貸してくれました」


 語尾が掠れた。話し過ぎだと、三喜雄は危機感を覚える。水を持ってくるべきだった。


「……その後のことは、断片的にしか覚えてなくて……」


 三喜雄が疲れを見せたからか、年嵩のほうの警察官は、ありがとうございました、と聴取を止める素振りを見せた。ほっとしながらも、三喜雄は昨夜からずっと気になっていたことを持ち出す。


「あの、差し支えなければ教えていただきたいんですけど……火が出た部屋の人は、どうなりましたか」


 年嵩の、50代後半くらいと思しき警察官は、亡くなりました、と感情を排して答えた。


「部屋の中で焼死していました……現場検証はまだ続いていますが、引火性の高い液体を部屋に撒いて火を放った可能性があります」


 もう1人の、三喜雄とあまり変わらない年齢に見える警察官が、手帳にメモをする手を止めた。微かに口角を下げたその顔からは、死亡した住人に対する怒りや不快感のようなものが窺えた。

 三喜雄は二の腕に鳥肌が立つのを感じた。灯油か何かを撒いたのであれば、周囲の部屋の被害が小さくて済むはずがない。昨日の瀧からの情報は、ガセではなかったらしい。

 若いほうの警察官が、手帳のページを繰って何かを確認してから、口を開いた。


「片山さんのお部屋は、火元が近い側の床が損傷しているので、すぐに戻っていただけない可能性が高いです」


 彼が指すのは、三喜雄の部屋の東側、台所や洗面所のほうにあたる。覚悟はしていても、事実として聞かされるとやはりショックだ。しかし三喜雄は、気持ちを持ち堪えさせるべく、耐えて言葉を発した。


「見に行って、無事な荷物を運び出すことはできるんでしょうか」

「明後日から、住民の皆さんに現地に行っていただけるよう段取りしていますので、管理会社から連絡があるでしょう」


 損傷した部屋の住人たちが、入院している者を含めて命に別状は無いという話は、三喜雄をほっとさせた。2人の警察官は、何か気になることがあればいつでも連絡してくださいと言い、三喜雄を促して部屋から出た。

 エレベーターホールで別れる前に、若い警察官が、こそっと三喜雄に話しかけてきた。


「片山さんって、ドマスのCMの歌手なんですよね?」


 突然の問いに、えっ? と三喜雄は返したが、すぐにぽっと胸の中が温かくなった。CMのロングバージョンにだけ出る「Baritone/Mikio KATAYAMA」という字幕は、意外と見られているのだ。


「はい、そうです」

「落ち着いた声なんで、もっと年上の人だと思ってました……すみません、クラシックわかんなくて」


 貶されてはいないようなので、三喜雄は笑顔になる。


「低い声は年齢が上の印象になりますよね、私バリトンなんですけど、オペラでもおじさんの役が多いんですよ」

「そうなんですか? 微妙ですね、オペラって恋愛の話がメインなんでしょう?」

「綺麗なヒロインと恋に落ちたり、女性にモテまくったりする美味しい若者役は、大概高い声のテノールに当てられてます」

「へえぇ……」


 若い警察官は、興味深い話を聞いたと言わんばかりの表情になり、三喜雄に礼を言ってから楽しげにエレベーターに乗り込んで行った。三喜雄も、クラシック音楽の啓蒙に寄与した気分になり、嫌な話を聞かされたものの少し浮上することができた。


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