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6月 32

 身の上話を聞くほど、カレンバウアーと親しくなった覚えは無い。武藤は三喜雄の気持ちを汲んでくれたのか、上司の家庭に関する説明をしなかった。


「……片山さんは困惑されたでしょうけれど、もし本当におうちのことでお困りでしたら……COOの自宅でしばらく間借りなさるのも、悪くないと思います」


 武藤の言葉は、三喜雄よりもむしろ、上司を思って発されたようにも感じられた。カレンバウアーは家族を失くして、独りで異国にやってきたということになるが、上司が孤独のうちに日々仕事をしていることを、武藤は心配しているのかもしれない。

 三喜雄は、最悪の事態になればお願いするかもしれません、とワンクッション置いておく。


「私は不快だったのではないです、ただメールだとどうしても、当たりがキツくなってしまうようで……私のほうこそ申し訳なかったとお伝えください」


 武藤は三喜雄の言葉を聞いて微笑した。


「はい、喜ぶと思います……でもCOOの言動が迷惑と感じられたら、はっきりそうおっしゃってくださいね……元々世話好きが過ぎる面がありますし、拒まれてもすぐに傷ついたりしませんから」


 わかりました、と即答する訳にもいかず、三喜雄は微苦笑を武藤に向けた。どうもこの秘書は、つき合いが長いのか、結構シビアにカレンバウアーを評価しているらしい。


「私からも、片山さんは日本人の中でもより謙虚なほうなので、困らせないように言っておきますね」

「あ、いえ、カレンバウアーさんが喜んでくださるなら、できる限りのことで……」


 三喜雄は言ったが、口先だけのおべっかでは決して無かった。音楽を良く知っているけれど、音楽業界の人ではないカレンバウアーから自分の歌を評価してもらえることは、新鮮でわくわくする、これまで知らなかった体験だった。彼が何らかの種類の好意を自分に抱いているのは、たぶん自意識過剰の見誤りではないので、好意に対して何かを返したくなるのもある意味当たり前だ。

 武藤は軽く頷き、はい、と言った。


「そのように伝えておきます、でも片山さんがCOOにどれだけ深い恩義を感じてらっしゃったとしても、嫌なことを無理に受け入れる必要は一切ありません」

「あ、はい……お心遣いに感謝します」


 その時、看護師がやってきて、警察が話を聞きに三喜雄を訪ねてきたと言った。看護師は、警察官たちを別の部屋に待たせているから、いま身体が辛くないなら、そこで話せばいいと言う。

 武藤も看護師の意見に同意した。


「ここで会わないほうがいいでしょう、誰か同席したほうがいいなら、おつき合いしますよ」

「いえ、大丈夫です……1人で行きます」


 三喜雄は別室に向かうべく病室を出て、そのまま武藤を見送った。カレンバウアーが社員に信頼されていることは、CMの録音の時にそれとなく感じたが、ああして近い場所で気を配っている人がいるのも好ましい。良いトップなのだろうと思う。

 看護師に案内されて入った、4人ほどしか座れない小さな部屋には、スーツ姿の男性が2人座っていた。三喜雄は緊張を覚える。何も悪いことはしていないのに、おかしな話だ。

 警察官たちは三喜雄に身分証を見せてから、昨日の朝、部屋で火事に気づいてからどんな行動を取ったのかを訊ねてきた。記憶を辿りながら話すと、あれから30時間も経っていないのに、数日前の出来事だったように思える。

 しかし忌まわしいほどに明るい炎の色や、毒々しい黒い煙に包まれた共用廊下の光景を思い出すと、背筋がぞくぞくした。嗅覚から叩き出したはずの煙の臭いが、じわじわと蘇ってくる。


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