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6月 30

 ぐっと眠りに入れたのはほんの3時間ほどだったように思う。夜中に目覚めた三喜雄は、慣れない部屋の景色の中で、溜め息をついて寝返りを繰り返した。

 「菩提樹」の前奏がふと脳内に流れ、昨日の朝もこれを聴いた気がすると思い当たる。もしや下の階のピアニストは、火を出す前にこの曲を弾いていたのかもしれないと考え、ぞっとした。何故この曲だったのだろうか。それともあれは、半分寝ていた三喜雄の脳が聴かせた幻だったのか。そうであってほしいと思った。

 瞼を軽く閉じていると、淡い眠りのヴェールのようなものがようやく訪れて、三喜雄は優しく暖かいそれに包まれていくのを楽しんだ。何も心配することはないですよ、と囁くまろい声。少し摩擦音が強くて深いその声を、三喜雄は知っている。

 男の声は、慰めるような、しかし軽い命令の意思を含んだ口調になる。


「あなたは私の傍で、歌うことだけ考えていればいい」


 何かが左眉の上に触れた。そして額を撫でる。人の指だ。

 その生々しい感触に、三喜雄は息を呑んで目を開いた。一瞬、誰かの腕の中に囚われているような圧迫感のある錯覚に襲われて、恐怖に全身をこわばらせる。


「……っ」


 息を詰めると、鼓膜の傍で心臓の音がどくどく鳴った。奇妙な感覚はすっと三喜雄の身体から離れたが、何なのだろうと思った。身体が疲れているのに頭が冴えている時、金縛りが起きるのに少し似ていた。

 寒いわけでもないのに、布団がぎっちり身体に巻きついている。だからあんな変な感覚があったのかもしれない。しかし、窓の外が不自然に明るくなったり、いきなり廊下で非常ベルが鳴ったりしないかという根拠の無い不安が拭い切れず、三喜雄は布団にくるまったままでいた。

 あれは、ノア・カレンバウアーの声だ。寝る前にカレンバウアーの提案をはねつけてしまったのを、気にしている自分がいる。そのことを認めざるを得なかった。

 それにしても。何となくいやらしい夢を見たような後味に、三喜雄の心臓が治まってくれない。何もかもがちょっとどうかしているのは、きっと昨日の朝の異様な経験を引きずっているからだろう。

 でも、カレンバウアーが自分を気にかけて、2回もこの部屋を訪れてくれたことが嬉しかったし、おかげでかなり落ち着きを取り戻せた。今も実のところ、こんな真夜中にあり得ないのに、来てくれないかなと心の隅で思っている。そこに座っていてくれるだけで、きっと安心して眠ることができる。

 駄目だ。三喜雄は自分を戒めた。あの人に、いや、誰に対しても、必要以上に甘えてはいけない。ただこの大都市は、三喜雄が孤独であることを、やたらと煽ってくる時があった。歌い、音楽を追求する時の孤独とは別物の、もっと単純な、気持ちを通わせ寄り添い合う相手が傍らにいない寂しさが、覆い被さってくるのだ。どうも今夜がそれらしい。

 三喜雄は無理に眠ろうとしないことにした。仕事は休みをもらっているし、歌う予定も無い。少なくとも明日は、まだ病院に居なくてはいけない様子だから、眠くなればいつでも眠れる。

 ゆっくりと呼吸しているうちに、やっとざわざわしていたものが鎮まり始めた。ゴールデンウィークに帰省したばかりなのに、札幌に帰りたい、藤巻先生に会いたい、とちらっと思う。7月の連休も帰ろうか。そうだ、カレンバウアーが函館に行きたいと言うかもしれないから、案内を申し出て、札幌にも立ち寄るというのはどうだろう。

 そんな計画を妄想していると、気分が上がった。三喜雄は頬の筋肉が緩んだのを感じた。


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